2013年02月28日

ぴょんぴょん

「ワラビ(蕨)ってわかる?」という問いに、
Hさん(文脈での判断を要する)が「動物ですか?」と聞き返し、
それは「ワラビーでしょ!」という、ツッコミが飛んでいた。

N君に同じ問いをしたら、アクションを交えながら、
「知ってます、こんなぽわぽわぽわとしたヤツでしょ?」
みたいな答え方をしていたが、知っているのか、
知っていないのかは、確認できないままなのであった。

いずれにせよ、Hさんにとっては、わらび餅は
ぴょんぴょん跳ね回る “ワラビー餅” のことなのだろう。

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2013年02月27日

違う私になるということ。

「私って変われるでしょうか?」即座に答える。
「変われると思いますよ」。でも、答えた後にきまって憂鬱になる。

瞬間瞬間に投げかけられる無数の選択肢を選択し続けるという営み。
たぶんそれが生の意味なのだが、その無数の選択肢のなかで
どのタイプの選択肢を選ぶかという “傾向” が個人のキャラクターであり、
問いかけの「私」の意味でもある。

“傾向” が変わるには必要なものがある。
過去の傾向を引きずりながらもこれを振り切ろうとする意志、
ひととの関係、選択を繰り返して新しい傾向ができあがるまでの時間の経過。
これらがあれば「私」は変わりうる。

とはいえ、それらの条件を充たしても、致命的な問題が次に待ち構えている。
変化しつつある者自身でさえ、この変化を生き生きと実感することはできないからだ。
変化した後のある日ある時、「あのときのままだったら、
私は一体どうなっていたんだろう」と思い出し、あの日の「私」と
今の「私」をぼんやり比べるぐらいが関の山なのだ。

「私って変われるでしょうか?」ここには、“一瞬のうちに「私」が
なにか決定的に違う「私」になるという実感” が求められている。
だが、残念ながらそのようなことは望むべくもないのだ。

心や体に過度の負荷をかけることによって、
手っ取り早くは薬物を摂取することによって起こる瞬間的な意識の
“変性” を「私」の変化と見誤る者は、跡を絶たない。
posted by pilz at 23:04| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月26日

役得

yakutoku.jpg
わがゼミの4年生、全員、卒業なり。
一瞬わが目を疑うが、思えばさもありなん。
ひとが天の貯蔵庫から奇跡を取り出す瞬間に居合わせられるのは、
この仕事の “役得” なのだ。
posted by pilz at 23:46| 京都 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月25日

研究発表会

今日は、とある研究会の年に一回の研究発表会。
今年は開催が危ぶまれたが、なんとか、開催することができた。
(夕方からの仕事は放棄しました。すいません。)
よくよく考えれば、ぼくはその会の会長なのであった。

挨拶らしきもので、なにかを続ける力がなんであるかを知りたいと言った。
はじめたことが振り出しに戻ってしまうようなことがあっても
挫けないでいられる力がなんであるか、それを知りたいと言った。
それは、うそいつわりないぼくの願いなのである。
posted by pilz at 22:49| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月24日

哲学そば

soba.jpg
どんな味がするのか、一度、食べてみたい。
きっと、すぐに「美味しい!」とは言えんような味だと思う。
(どんな味なんだ。)
posted by pilz at 23:39| 京都 ☀| Comment(0) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月23日

言葉の伝染力

tentou.jpg
「すいません、いつもながら、口の悪いことで。」
そう伝えると、そのひとは苦笑いをした。
よほど迷惑をかけているのだな‥‥と思った。

電車のなかでマスクをせずにくしゃみを繰り返すひとを、
「無差別殺人的」と表現したことがある。
風邪をひいたらマスクをするぼくだが、
それでもひとを死に至らしめていないとは言えない。
口の悪いぼくは、辛辣(しんらつ)なことを言ってこれまで
たくさんのひとたちを傷つけてきた。なかには、
それが原因で死に至ったひともいるかもしれない。

直接的に死に至らしめないとしても、ぼくの言葉で
誰かが不機嫌になって、不機嫌になったそのひとの言葉で
第三、第四の誰かが深く傷ついたかもしれない。
そういう意味では、“無差別殺人的な男” とぼくとは
同じ穴の狢(むじな)というわけなのだ。言葉とは恐ろしい。
冷たい言葉は投げかけられたひとの心を冷たくし、
冷たくなった心はまたべつの誰かに冷たい言葉を投げかける。
冷たい言葉は伝染するのだ。

とはいえ、伝染するのは冷たい言葉だけではない。
温かい言葉も、温かい言葉をかけられたひとの心を温かくし、
温かくなった心はまたべつの誰かに温かい言葉を投げかけ、
この経過はやはり無限に至る。ひとにやさしい言葉をかけることの
一番の効用は、たぶんこの辺りにあるのだろう。
口の悪いぼくでも、時にはやさしい言葉をかけたことが
あったような気がする。その言葉で、知らないうちに、
めぐりめぐって誰かを助けたこともあるのではないか?

「ある程度都合のよい解釈をすることが長生きのコツだ」と、
長生きしてインタビューされるようなことがあったら、答えよう。
posted by pilz at 23:49| 京都 ☀| Comment(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月22日

わかるひとにはわかる。

sushi.jpg
今日も寒かった。
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2013年02月21日

略語を使うこと。

隣のテーブルで鍋をつついている二人が話している。
「それはセブンイレでいい‥‥」「たしかこの辺にセブンイレが‥‥」
どうやらセブンイレブンについて語っているようなのだけど、
なぜか決して「セブンイレブン」とは言わない。
「セブン」ならわからないでもないけど、
「ブン」のみ略することにどんな効用があるのかと思うが、
きっと立派な意味があるのだろう。

昔、この大学に入学するちょっと前に、
高校の友人が「谷大」という略称を使っていて、
その友人に一目置いてしまったことを覚えている。

親しい者だけに伝わるニックネームを使うことには
秘密を共有する甘美さがあるが、なにかを省略することには、
その全体をよく知ったうえで、コンパクトにして、
自由自在にコントロールできているような万能感を
感じ取ることもあるように思う。
posted by pilz at 22:11| 京都 ☀| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月20日

根源的なおちゃらけ性

otya.jpg二次元のYさんからの情報によると、昨日、「FさんのところへGo!」とYさんにぼくが書いたメモを見つけたF先生はそのメモをいたく気に入り、どこぞへ持って行ったらしい。

F先生からすれば、ぼくはまじめ一直線な男に映っているのだろう。会議では冗談を言わないし(言えば会議が長引くもん)、ブログでも内省的な文章ばかり書いているのだから、それ以外には判断根拠がなくて、
そういう理解をするのも無理からぬことだ。

F先生もそうだろうが、ぼくの日常をここに書くのはむずかしい。
だが、ぼくのなかにあるおちゃらけの本能、“根源的なおちゃらけ性”
とでも言うべきものは、つねにターゲットを求めて、
クラウチングスタート状態で待機しているのだ。
(なんか立派なことを書いたような気がする。)
posted by pilz at 23:46| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月19日

「漂泊の思ひやまず」

station02.jpg
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2013年02月18日

白絞油

nano.jpg
スーパーには豆腐屋があって、その店の裏には、
「白絞油」(しらしめゆ、菜種油を精製した油)と
書いた一斗缶がたくさん置いてあった。

ぼくは「白絞油」を「白鮫油」と読みまちがえていて、
なんとめずらしい油を使っているのかと、
油揚げを揚げる豆腐屋のおっちゃんを尊敬していた。
しばらくしてスーパーは閉店して、
おっちゃんもどこかへ行ってしまった。

どうでもよいことのはずなのに、ささいな誤りが、
いつまでも心に残っていることがある。
ぼくは死ぬまで「白絞油」のまちがいを忘れないだろうが、
それがなぜなのか、じぶんのことなのにわからない。
posted by pilz at 22:08| 京都 ☔| Comment(0) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月17日

主体的に学ぶための条件

大学生は授業を主体的に、じぶんで選ぶのだから、
ただ教員が来るのを待つのではなく、授業ごとに教室を移動する必要がある。
――と言えば、当たり前のことじゃないか?と言われるだろう。
でも、この「授業ごとの教室移動」というのが学生にとって
けっこうな負担になる場合があると言えば、ひとはどう言うだろうか。

仲のいい友だちとちがう授業になってしまうからイヤだとか、
歩き回るのがメンドクサイから、とかいった理由でではない。
授業を受ける教室を覚えることができない学生がいるのだ。
学校のなかでの教室の位置関係がいつまでたっても把握できず、
学校のなかで迷子になって教室に到着できない者がいるのだ。

ぼくもまた、じぶんが授業をする教室をほとんど覚えないが、
それはたんにぼくがぼんくらで、覚えようとする気がないだけであって、
上で言った学生とは根本的に意味がちがう。
教室をまちがわずに、遅れずに行く‥‥というのは学生にとっては、
学生生命を賭した切実な問題であるはずなのに、
そうしたくてもそれができにくい学生がいるのだ。

4月、そういう学生は切実な問題をどうにかクリアするために、
“道先案内人” になる学生の確定作業をまず最初にしてから、
その学生と授業が異ならないように授業の選択、登録をする。
こういう学生は、主体的にじぶんの学ぶべき授業を選ぶのではなく、
じぶんが迷子になって困らないような授業を選ぶのだ。

教室がわからないのだから、事務の位置もわからない。
なにかあったときに早く相談に行かないといけないとわかっていても、
その位置がわからないから、行けなかったりする。

教室の位置にしても事務の位置にしても、「学生手帳に書いてある」
と言うひともいるかもしれないが、「手帳に書いてあることを見る」
ということと、「手帳に書いてあることを理解して行動することができる」
というのは同じことではないのだ。「北」と「南」という言葉は知っていても、
北と南の方向感覚がないものだから、なぜ「上」が「北」で、
なぜ「下」が「南」なのかわからず、地図を使いこなすことができない。

ぼくが上に書いたのは、ぼくらが現場で出会う問題の一例にすぎない。
学生が大学で主体的に学ぶための導入教育が言われて久しく、
それはどうしても必要なものであるが、じつは、こういうタイプの
少なからぬ学生をどうするのかということも考える必要がある。
いつか、いやすでに、学内GPSが必要なのかもしれない。
posted by pilz at 20:14| 京都 ☁| Comment(3) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月16日

若い女性識別能力の低下についての考察

あるとき、若い女性の区別がつきにくくなった。
とりわけ、髪を金髪に近く染めている女性は区別できないようになって、
人間というよりも人形、ドールというのかな、に見えるようになった。

歳をとると老眼になって小さな文字を識別しにくくなるように、
歳をとると若い女性の識別能力が落ちるのかどうかはわからない。
この辺りはCのYさん(二次元、アイドル担当)に聞いてみないとわからないが、
若い学生を見分けられないようでは、教室での仕事にもさしつかえる。

昨日、帰りの電車の吊り広告にキノコをかぶった若い女性たちが載っていて、
これはちょうどいいとばかりに、広告の前に立って、片目を隠しながら
区別できるかどうか、両眼の “視力検査” を続けていたら、
電車のなかの若い女性と目が合って、さっと視線をはずされてしまった。
その目が「怖い」と語っておりましたな。見ず知らずのひとを
怖がらせてしまうとは、まったく申しわけないことです。

4月にCの職員たちと会ったとき最初に思ったのは、
4人の女性を見分けるのは不可能ではないか、ということだった。
ひとちがいをして失礼をしたらどうしよう‥‥と頭をかかえたけれど、
いまにして思えば、取り越し苦労だった。
posted by pilz at 17:22| 京都 ☀| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月15日

二者択一

ぼぉ〜っと携帯を見ていてはっと気づいたら、バスが逆向きに走っている。
最寄りのバス停をはるかに過ぎていて、もう駅前近くに戻ってきているのであった。
ときどき集中して本を読みはじめるとこういうことになるが、
携帯を見ていてこんなことになったのははじめてだった。
30分間ほどの記憶がまったくない。集中力があるのか、
それとも、惚(ほう)けているのか‥‥

posted by pilz at 23:36| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月14日

自縛

shiba.jpg
右に行ってはダメだと右にロープを張って、
左に行ってもダメだと左にロープを張って、
上もダメだと上に張って、ついには下にも行くなとロープを張る。

それですべて問題が解決したかというと、
けっきょく、がんじがらめのロープをすりぬけて、
自由な心はどこか遠くに去って行ってしまう。

そんなことはじゅうじゅうわかっているのだが、
困ったことに、ことあるごとに同じ失敗をくり返してしまう。
やっかいなことに、縛りから逃れることも、
じぶんで縛りをかけることも、どちらも自由なのだ。
posted by pilz at 23:30| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月13日

聖域としてのラーメン

ラーメンはあまり食べない。以前はそれなりに食べていたのだが、
いつごろからかラーメンがブームになって “国民的な食” と言われはじめ、
街のそこここにラーメン店ができ、しばしばそこに長蛇の列を見るように
なってきてからは、めっきり食べなくなってしまった。

同じような理由で、ぼくは高校野球や高校球児が好きではない。
ややこしいことを言うようだが、高校野球も高校球児も嫌いなわけではないのに、
高校野球も高校球児も好きではないのだ。同じように、ぼくは赤ちゃんが好きではない。
赤ちゃんが嫌いなわけではないのに、赤ちゃんが好きではないのだ。

それはこういうことだ。例えば、ぼくが、試合に負けて泣いている高校生を見て
「あの光景のどこが美しいのですか?」とか、赤ちゃんを見て「どこがかわいいのですか?」
と真顔で聞いたとする。すると、聞いた人の何割かは答え(どの部分が美しいとか、
どの部分がかわいいとか)を考える前にぼくに恐怖し、警戒することだろう。
ぼくは美しくないとも、かわいくないとも言ってないのに‥‥

このとき、高校野球や赤ちゃんは、それにかかわる者に議論の余地を与えない
聖域となっている。問うべくもないものとして、答えはあらかじめ決定しているのだ。
ぼくは、こういう問いを許さぬ聖域となったとき、とたんにそれが好きではなくなる。
赤ちゃんからすれば、じぶんに落ち度はないのに、不条理きわまりない話である。

墓参りに行ったとき、以前から気になっていた小さな食堂に入ってみた。
昔ながらの黒い札のメニューが壁に掛かっている。「中華そば」を頼んでみた。
出てきた素朴なラーメンは、やっぱりとても美味しかった
posted by pilz at 22:18| 京都 ☀| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月12日

なにもしない、ということ。

stop.jpg先月は風邪をひいて1日寝込んだ。こじらせないよう安静にしていたのだけど、そのとき改めて思ったのは、本を読まず、ひととも話さず、なにもしないでいるのは意外につらい、ということだった。

ぼくらはいつも多くのことをしているのだろうけど、そのほとんどは習い性(生まれながらの性質のようになった習慣)になっていて、ふだんは意識していない。

でも、いざ、そういう習い性にストップをかけるとなると
けっこうエネルギーがいる作業で、これは例えば、
緩い坂道をゆっくり落ちてくる鉄球を止めることを考えてみればよい。
「なにもしないでいる」ということは、「なにもしていない」のではなく、
「なにもしないでいるようにしている」ということなのだ。

なにもする気がしないとか、なにも考える気がしない、という状態を、
いまさらながらだけど、しっかり考えてみないといけないな、と思った。
ただ、それだけなんだけどね。
posted by pilz at 23:56| 京都 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月11日

夜泣きソバ

ramen.jpg
せっかく書いた記事がサーバーの不調で消えてしまった気がする。
さすがにもう一度書く気力はない。むかっときたので、ふてくされて寝る。
夜泣きソバが泣いて、ぼくも泣いている。
posted by pilz at 23:47| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月10日

「いつか」

Frage.jpg
いつか勉強してみたいと思っているひと。才市も忍性も‥‥きっと、いつか。
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2013年02月09日

ポン・デ・リングひとつ。

以前、恥ずかしくて使えない言葉について書いたけど、「教師」も使えない。
とくにじぶんのことを指す場合には、恥ずかしくて使えない。
「ときどき大路小路でも使ってるじゃないか?」と言うひともいるだろうが、
そういうときは、例外なく、恥ずかしい思いで書いている。

この恥ずかしさを説明するのは、むずかしい。そこには、
「教師などと思われたくない」と「教師と思われるには未熟である」という
思いがミルフィーユのように重なり合っていて、じぶんでもつまびらかにできない。
こういうことを言うと、ぼくの学生は気を悪くするかもしれないけど、
ぼくは、日々、あぁ恥ずかし‥‥と思いながら働いている。

そんなことだから、家に帰ってからも教師だとは思われたくないのだけど、
幸いなことに、ぼくの家内(変な表現だな)はぼくがどんな仕事をしているかに
ほとんど興味をもっていないひとで、かつドーナツが好きなひとだから、
北大路駅前にミスドがあったころには、ぼくは毎朝、ドーナツを揚げに
北大路まで行っている‥‥ぐらいに考えていたらしい。
posted by pilz at 23:56| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月08日

漁業

今日おもしろかったのは、「捕る漁業」から「育てる漁業」へ、という言葉。この言葉は、いまは育てられていないということも意味しているのだけど、耳がいたい。
posted by pilz at 23:49| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月07日

ルイス・サッカー『穴』

(以下は以前、12月23日ごろに書いた文章です。)
当方、病んでおりまする。ゲホッゲホッ。風邪をひいてしまいました。
ウィルスの猛攻撃にタジタジしておりまする。しかしこのような苦しいときにこそ、
人様のお役に立ちたいと願い、一人クリスマスを迎えるあなたのために、
おすすめの一冊をご紹介いたしましょう。

きっとあなたはこう考えておられるに違いない。
これだけの実力を秘めたこの私がクリスマス周辺の日々を一人ポッチで過ごすなんて、
単に今年はツイてなかっただけなのだ。そうです。ツイていなかっただけなのです。
そこで、どうでしょうか?ルイス・サッカー『穴』をお読みになっては?

主人公は少年、スタンリー・イェルナッツ四世。
この少年、だてに四世というのがくっついてるわけではありません。
ひいおじいさんも、おじいさんも、お父さんもみ〜んなツイてない、
先祖代々まったくツキから見離された家系に生まれてしまった、
あわれな少年なのです。彼自身、「まずい時にまずいところに」いたという理由だけで、
無罪の罪で砂漠の真ん中の少年院にぶち込まれ、来る日も来る日も、
穴を掘る強制労働を続けさせられています。(この辺り、CKPせんせいだと
「穴をホール、な〜んちゃってね」などと昭和レトロ調にボケるのでしょうが、
当方、そんなことはしないのです。)

しかしある日、スタンリーは思い立ちます。行動します。はたして、
彼は四代にもわたるイェルナッツ家の “呪い” を断つことができるのでしょうか?
アメリカの児童文学書ですから、テツガク的なひねりはないけれど、
素直におもしろいですよ。なになに? 今からじゃクリスマスまでに手に入らないって?
病んだ当方、そこまでの責任は負いかねます、ゲホッ
posted by pilz at 13:03| 京都 ☀| Comment(0) | 好きな本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月06日

薄暗がりの仲間意識

昨日、薄暗がりのバス停で出会ったひとたちが挨拶をしたことの理由を、
暗くて顔が見えないことの得体の知れなさ、不安によるもの、
じゃないかと考えたけど、そうではない気がしてきた。

今朝も挨拶されて気づいたが、暗がりで顔の見えない謎のおっさんたちには、
謎は謎なりに、どことなしか和気藹々とした雰囲気があった。
「いやぁ今日も5時58分ですか、お互い、会社が遠いですなぁ」とか、
「なんともこの時間だと、家のもんは誰も起きてきてくれませんよね」といった
無言のコミュニケーションが成り立っている感じがしたのだ。

このおっさんたちは、孤独とか、暗闇とか、寒さとかいった
どうにも制御しがたい難敵と闘いながら○○駅に向かう “同行者” として、
一種の仲間意識のようなものをもっている気がしたのだ。
その意味で、ぼくは「チーム5時58分」の新参者なのである。
posted by pilz at 06:58| 京都 ☁| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月05日

薄暗がりの文化

家を出るとまだ外は暗い。昨日の雲がまだ残っているようで、
星は見えない。不思議なもので、ちょっと朝早く家を出るだけで、
いつもよりも立派なひとになれたような気がする。
明け方の星が見えればもっとご機嫌なのに、もう。

バス停で待っていると、ちらほら、いっしょに駅まで
ゆられるだろうひとが現れる。「おはようございます」。
暗がりのなかで誰ともわからないひとたちから挨拶されて、驚く。
いつもの時間なら誰も挨拶などしないのに‥‥と思うが、
そらそうだろうとも思う。後ろに並んだひとからすれば、
薄暗がりのなかで前にいるぼくは、人間の言葉さえ理解しない
ような宇宙人かもしれないのだから。
posted by pilz at 06:50| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月04日

懺悔(ざんげ)

inu.jpg
こういう目で見られると、ひごろの悪事を洗いざらい白状して、
悔い改めたくなる。今日も居眠りしてました。
食べてはいけないナッツ食べました‥‥
posted by pilz at 23:09| 京都 ☁| Comment(0) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月03日

草の絨毯

tanpo.jpg平屋で育ったせいか、2階で生活することになかなか慣れない。2階で寝ているのだけど、じぶんが2階で寝ていると思うと、体全体がふわふわと浮いたような感じになって、落ち着かない。

できるだけ地面に近いところがよいというので、リビングにもソファーを置くことはない。薄い敷物を敷いて、そこにべたっと座っている。

「なんでソファーを置かないのですか?」と遊びに来た学生に
言われたことがあるが、べたっと座るほうがいいから置かないのだ。
皮革の匂いも好きではない。申しわけないことだが、
客人にもいっしょにべたっと座ってもらう。

ぼくの幼年期の記憶は、稲田のあぜ道に腰を降ろして、
レンゲやタンポポやツクシを見つめているところからはじまっている。
いまでも、草の絨毯(じゅうたん)の上でごろごろするのが好きだ。
さすがに寒い時期はリビングにもふかふかしたものを敷いているが、
夏になるとイグサで編んだようなものを敷いて、
イグサの香りをかぎながら、そのうえで仕事をしている。

稲田の端っこには、稲よりもずっと背の高い草が生えていた。
それがタタミの材料になることは、学研の図鑑から知った。
家に余裕はなかったが、幼いぼくがあまりにも欲しがるので、
母が無理をして一冊ずつ買ってくれたものだった。ぼくはこの宝物を
とじひもが切れて、ばらばらになるまで繰り返し読んだ。

早く暖かくなって、またイグサのうえでごろごろしたい。
このとき、ぼくは少年期をじぶんの下に敷くことになるのだ。
ぼくとちがった育ち方をしたひとなら、羊毛で織られた絨毯や、
皮革の匂いがするソファーの上のほうが安心できるのかもしれない。
posted by pilz at 21:32| 京都 ☁| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月02日

23時ごろに考えること

base01.jpg23時ごろになると、ごそごそと大路小路を書きはじめる。今日一日、朝からなにを考えたかな‥‥と思い出しはじめる。

学生と会った日は、あぁあんなことを考えたな、こんなことを思ったな、とそれなりに思い出すことがあって、なんなり書くことができるが、学生と会わなかったときは、あんまり思いつかない。

ここに書いているのは「あ(在)ったこと」よりも「考えたこと」なのだけど、
ひとと会わなかった日には、ほとんどなにも思いつかない。23時ごろになると、
ときどき、会うというのは考えることなのだろうか、と思う。

そして、「会った」というのにはいつくもレベルがあるのだろうけど、
なかには、会ったことで、生涯にわたって、ことあるごとにぼくに問いを投げてきて、
考えることを強いるようなひとがいるのではないかと思う。
その意味で、おうおうにしてぼくの行動は、そういう問いへの「答え」なのだ。
ぼくはまだ生涯を生ききったわけではないだろうから結論は言えないけど、
すでに、そういう “候補者” がなんにんもいる。
posted by pilz at 17:34| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月01日

上手にウソをつく能力

恥ずかしくって、あるいは、畏れ多くて使えそうにない言葉がある。
「本当の」とか「真実の」は、その代表的なもの。
ぼくじしんは使えないし、学生にも、よほどのことがない限り
論文には使わないように言っている。

思想内容を形容する「深い」も使えない。
おちゃらけて使うときはあるが、まじめに使うことはできない。
特定の思想が「深い」と言うためには、深さの尺度をもっているか、
深さを体得している必要があるのだろうけど、未熟な当方、
そんなものはもってもおらず、体得もしていない。

世の中には、深さで勝負するひとと、
明晰判明さで勝負するふたつのタイプがあるとすれば、
できればじぶんは後者になりたいと、たしか20代のころは思っていた。
いつかはなれるにちがいないと信じていたのだが、ダメだった。
でも、深さでも明晰判明さでもないが、けっこう使いでのある能力は、
それなりに身につけたように思う。
posted by pilz at 23:48| 京都 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする