2013年06月30日

オープンキャンパス系の告知、鷲田先生の模擬授業など。

ぼくはじぶんにかかわることで宣伝をするのがヤなのである。
恥ずかしいからそんなこはよぉせぇへんのである。
が、どんなに苦手なことでも、立場上、せんならんこともあるのである。
なんとなく、これから宣伝せないかんことがよおけぇ出てくる
ような気がするので、この辺できっぱりあきらめて
ぼくとか哲学科にかかわる宣伝をするのである。

■「体験!つながるゼミナール」
(第3回)
7月21日(日)の13時〜14時10分、H404教室にて。
題材は、佐野洋子の『100万回生きたねこ』です。

(第4回 最終回)
8月3日(土)、8月4日(日)の●時●分〜●時●分(未定)。
題材は、斎藤隆介/滝平二郎の『モチモチの木』です。
(3日と4日は同内容のゼミです。)

G君による第2回ゼミナールのレポート
(G君、多謝。身体を大事に。)

■自己推薦書・小論文対策講義
7月21日のオープンキャンパスを皮切りにして、
さまざまなかたちの対策講義が行われます。

*担当はぜんぶ ぼく(いったい、どういうことなんだ)。
じぶんで言うのはなんだけど、ぼくの小論文講義は Good だと思う。
(あ〜あ、ほんとうのことを言うてもうた。)

■哲学系模擬授業
8月3日(土)、池上哲司先生
8月4日(日)、鷲田清一先生
8月5日(月)、門脇健先生 (順番、池上先生と鷲田先生の日を訂正しました。)

*これは哲学科としては空全絶後のラインナップだと思う。
(ちなみに、パクチー先生は、なんだかんだと言って模擬授業をしない。)
鷲田先生の模擬授業が聞けるチャンスなんて、そうそうないよ。
それぞれ、まったく違う先生だから、哲学に興味をもっているひとは、
できれば、全部、聞いてみて欲しいと思っているけど、忙しい?

そんな感じ。
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2013年06月29日

紫陽花色

ajisai02.jpg
学内某所にて。
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2013年06月28日

ミーはいつの間にか、いなくなった。

「猫と犬とどちらが好きなのですか?」ときどき聞かれます。
もともと猫は好きです。ある時期までは、猫好きの、アンチ犬派でした。
あまりにも飼い主に迎合的な犬の態度を許せなかったのです。
いまでは丸くなって、すっかり犬好きになりましたけどね。

猫好きを決定的にしたのは、小さいころに飼っていたミーという名の
メス猫でした。とても頭のいいやつで、お手も、お座りもできました。
玄関や部屋の引き戸も器用に自分で開けて出入りしていました。
学校から帰ると、ミーが「ニャー」と言って出迎えます。
「お帰り!」のつもりだったのでしょう。膝が好きで、寒くなると
すぐにのっかってきました。人に爪を立てるようなことはありませんでした。
今から思えば癒し系のネコでした。

猫ってのは薄情で、特にオス猫なんかは発情期になると
決まってメスを求めてぷいっとどこかへ行ってしまって、帰ってきたり、
帰ってこなかったりを繰り返したものですが、
ミーに限って言えば、そういうことはありませんでした。
ずっと家にいて、何年も家族の一員でした。

そんなミーもいつの間にかいなくなりました。死期を悟って
どこかに行ったのでしょう。あれほど親しくしていた家族にも
じぶんの死期を見せないとは‥‥本能とはまことに不思議なものです。
最期を見られなかったのは少し寂しくもありましたが、
それがミーの希望ならそれでよい、と思いました。
それから、ぼくは誰の死に目にも会うことがなくなりました。
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2013年06月27日

根はいいひと

ひとと話していると、ときどきこの表現を使ってしまい、
落ち着かなくなる。落ち着かない理由はいくつかある。

ひとつは、「根はいい」と言うことは、「根以外は腐っている」
と批評することでもあるだろうからだ(言い過ぎか?)。
他人をつかまえて大半は腐っているなどと言って後ろめたくない
ひとなどいないだろう。

つぎに、肯定的なものであれ
否定的なものであれ、他人のなにかを批評することは、
どうしても必要な行為であるはずだし、ある意味、仕事上でも
いつもしていることなのに、あいかわらずぼくにとっては
どこかしっくりこない作業のままだからだ。

そして最後に、「根はよい」と言うことで否定的な流れの最後に
肯定的な評価を置き、いわばハッピーエンドにしようとするというか、
臭い物にふたをしようとする理由は、ほかのひとは知らんが
少なくともぼくの場合、他人を肯定したいからなのではなく、
他人を肯定的に評価できるじぶんの器量を肯定してもらおう
としているからなのだ。
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2013年06月26日

発見の喜び

全体を見て「ここは誤りである」と指摘した場合、
この言葉はどういうことを意味しているのだろうか。

まず、「ここは誤りである」という表現は、
「ここ以外の部分に誤りはない」「これ以外の部分は正しい」
ということを前提しているのではないだろうか。
だとすれば、「ここは誤りである」という表現は、
「ここを修正さえすれば、それは全体として正しくなる」
「ここを修正さえすれば、それはさらによくなるだろう」
ということを志向しているのではないだろうか。

だがぼくたちは、というか少なくともぼくは、
じぶんよりも年若い者と接するとき、とりわけ学問にかかわる
ときには、そうしたニュアンスをすっかり省いてしまって、
「誤り」の部分にのみ目を向けてしまいがちなのだ。
そしてやっかいなことに、“学問的な厳密さ” を口実にして
そういったアンバランスさを大目に見てもらおうと甘える。

「誤り」にこだわる理由は簡単だ。
全体のなかにわずかに見え隠れする誤りを探し出すことは、
“発見の喜び” の相を呈するからだ。曖昧に隠れているもの、
不明確なままであったもののなかから明確なものを見つけること
が学問の喜びだとすれば、こうした “誤りの発見” は
学問の喜びと境を接しかねない。学生と対峙するときには、
上のような削ぎ落としてしまいがちなニュアンスを掬い上げ、
表現するようつとめることも大切だと思う。
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2013年06月25日

学生に注意される

学生に「底なしに腹黒い」と注意され、
とっても誇らしい気分になる。

まず、「底なし」と評されるじぶん(ぼく)が誇らしい。
人間、なにごとにも中途半端はいけない。善きにつけ
悪しきにつけ、振り幅の大きい方がエネルギーも大きいのだ。
考えてもみなさい、学生諸君。たしかにぼくは今は悪しき教師
かもしれないが、いつなんどき、この巨大な悪しきエネルギーが
そっくりそのまま善の方へと振り向くとも知れない。

学生の洞察力も誇らしい。学生はぼくが(^▽^ウケケッと吟味した
対学生用の仕掛け(トラップ?)に気づいたのだろうけど、
これに気づくには透徹した洞察力が必要なのだ。考えてもみなさい、
学生諸君。世知辛い世の中を上手に生き抜くためには、
ひとと、ひとの策略を見切る目が必要なのだ。それでも、
ぼくが学校中に隈なく張り巡らしている仕掛けのすべてを
見切ることは到底、不可能だろうけどね。(゜ー゜)

そう言えば、先週は「冗談が過ぎる」と注意されたのだった。
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2013年06月24日

試金本

個研にはできるだけ学生にとって役立つような本を置いている。
学生に役立つといっても、いろんなパターンがある。
学生の座り位置に近いところに置いてある絵本たちが
これまでの学生指導でどれほど役立ってきたか、
なんてことはまだ書かない。

他人から見れば単なる汚部屋にすぎず、学生たちにはいつも、
「ぼくって整理できないんだよね〜誰か整理整頓してくれないかなぁ〜」
などとへらへらしているが、各本棚での本の配置は極めて緻密な
ウケケ的計算のもとに管理されている。

なかでも一冊、学生との関係においてとても重要な本がある。
本来こういうことは日々の営業に差し支えるので話すべきではないが、
今日は特別にお話しする。それはぼくが秘かに “試金本” と
読んでいる本で、この本を貸して、一週間程度で
「おもしろかったです」と返しに来ることができれば、
その人は長く哲学することができるひとなのだ。

長く哲学することができるためにはいくつか条件が必要だ。
「じぶんとは違う考えをおもしろいと思えること(他人に興味をもつこと)」、
「粘り強いこと」、「孤独に耐えられること」なのだけど、これら3つに、
「誠実であること」を加えて4つのことが身についている人でなければ、
上に書いたようなことは生じないのだ。

ときどきはこの本を貸すのだが、残念ながら読み通せないまま
返しに来るのが大半で、いつも残念な思いをしている。
上のような条件を揃えたひとは十年にひとりも出てこないのかなぁ
などとも考えるが、問題がひとつある。記憶している限り、
この本を読もうとして読み通せなかった最初のひとりは、
なにをかくそう、ほかならぬ、ぼく自身なのである。
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2013年06月23日

二つの課題

その保護者の方はおっしゃった。
「大学の先生とこんなに気安く話せるとは思いませんでした。」
そして、最後にこうおっしゃった。
「先生のご専門はなんですか?」
「哲学です。」

その瞬間、その方は言葉を失った。
なぜよりによって哲学なのですか‥‥
つぎの言葉が出ないその顔には、そう書いてあった。

大学の教員として、哲学を勉強する者として、
やらんならんことがたくさんあるのだ。
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忘れられない光景

okinawa.jpg
学生たちといっしょに沖縄本島の南部戦跡を巡ったことがある。
学生のなかにはひとり、寺院出身の学生がいて、
ちょととマイペースな感じのひとだったから、場所場所で、
「さぁみなさん、いっしょに」という感じでお経を読みはじめる。

一抹の不安があった。

そのときいっしょにいた学生の多くは、かなり理知的というか、
悪く言えば理屈が強いタイプで、いい加減なことを言う教員であれば
簡単に論破するぐらいの力があったから、そこで手を合わせて、
頭を垂れることができるかどうか、心配になったのだ。

でも、そういうのはまったくの杞憂で、学生たちはみな、
僧侶学生の後ろに並んで、手を合わせて、真剣な表情をしていた。
ぼくはじぶんが恥ずかしくなって、また、青年たちを頼もしく思った。
きっとぼくは、こういうひとたちに会いたくて、この仕事をしているのだ。
生涯忘れられない光景のひとつ。
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2013年06月22日

梅雨期の採集生活はじまる。

question02.jpg
学内某所にて。
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2013年06月21日

いつも一年生

なにをしてもうまく育たずに困っていた花が咲いた。
先日の肥料がなぜか効いたらしい。家庭菜園をはじめてなんねんにもなるが、
なかなか思いどおりにゆかないものだ。そう言えば、近所で毎週開かれている
野菜市で農家のおっちゃんが嘆いていた。「百姓はいつも一年生、毎年勉強や。
去年うまいこといっても、今年うまいこといくとは限らん。
あっちの畝でうまいこといっても、こっちの畝ではうまいこといかん」。
植物は機械ではない。無数の条件に影響される複雑な有機体が相手である以上、
そういうことになるのだろう。

考えてみれば、家庭菜園をはじめた年は今の大学で仕事をはじめた年でもあった。
同じ有機体でも、人間が植物とは比較にならないほど複雑なことは言うまでもない。
実際、学生と付き合ってうまくゆくなんてことはほとんどない。
失敗の連続だと日々感じる。教師の努力で花を咲かせられるなんて考え自体、
古くさい幻想にさえ思えてくる。もちろん、だからこそ、
うまくいったと思えたときの喜びはひとしおなのだろうけど‥‥

きっと、教師なんていう割に合わない仕事をやっているのは、
こういうめったにない瞬間に運悪く出会ってしまって、
いつまでもその快感が忘れられないひとたちなのだろう。
そういう意味で、教師もひたすら快感を求める中毒者の一人なのだ。

アルコールやニコチンといった他の中毒者とちがうのは、
本当にあるかないかわからないものを快感の対象にできるお気楽さと、
えんえんと禁断症状に耐えることのできるストイックさを持ち合わせている
ことぐらいだろう。おっちゃんのように、「いつも一年生」と思えるだろうか。
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2013年06月20日

流しそうめん

nagashi.jpg
今年も行けなかった、雨で。_| ̄|○
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2013年06月19日

nira.jpg
昨秋、近所の山にキノコを探しにいったときに、
意外な山間(やまあい)に小さな畑が作られているのを見つけた。
そこはきめ細かな山砂が採れるところで、お世辞にも肥沃とは言えない
土地だったが、スイカやらナスビやらカボチャやら、
けっこうたくさんの野菜が整然と畝(うね)に植わっていた。

雨水を貯める貯水槽がつくられていた。辺りに川はない。
美しい山砂は水をいとも簡単に吸い込んでしまうのだろう。
畝のあいだには、首をすっぱりと落とされたヤマカガシが一匹
横たわっていて、赤い切り口には銀蠅たちがたかっていた。
それを見て、なんの根拠もないとは感じつつも、
この畑を作っているのは本当に土に生きているひとなのではないか、
という思いを抑えられなかった。

実家の玄関からヘビが家に入ろうとしたことがある。
朱点をおぼえているから、ヤマカガシだったのだろう。
足下で素速くうねったいやに長いものに驚いてぼくは「うっ」とも
「あっ」とも言えぬ声をもらして飛びのいた。その声を聞くが早いか、
納屋の壁に掛けてあった鍬を持って駆けつけた祖母は、微塵の躊躇もなく
ヤマカガシの首をしたたかに打ちつけ、殺したのであった。
鍬をもつ祖母の手の指は、太く、節くれ立っていた。
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2013年06月18日

今日も

飲んでいましたのじゃ。あと、6分しかないではないか。いろいろ、じぶんのビジョンを語り合える場所があることはいい。よしんば、荒唐無稽とか思い上がりが多いにしても、このなかから実を結ぶこともあるだろう。
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2013年06月17日

大学の弱点

卒業生や高校生や保護者の方混成のゼミナールが終わって、
とある高校生が尋ねた。

「この大学の弱点はなんですか?」

「この大学に来たらどうなれるのですか?」とか、
「この大学に来たらなにが身につくのですか?」とか、
「この大学でとれる資格はなんですか?」とか、
ありがちなことを聞くのかと思ったら、
こんなことを聞くのである。

こんな質問をされたのははじめてだったので、
これはおもしろいと思って、「狭い」からはじまって、
いろいろと弱点をあげていく。で、最後にあげたのが、
「大学の空気になじみすぎて、出て行こうとしない学生がいる」。
説明しながら、なるほどこれはゆゆしき問題だと思っていた。

学生が出て行かない大学じゃなくて、出て行っても
いつでも帰ってこれるような大学にしないといけないよね。
いつでも帰ってこれるからこそ、安心して出て行けるんだ。

ゼミナールを手伝ったくれた方々と、
参加してくれた卒業生への感謝の気持ちをここに。
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2013年06月16日

真剣勝負

今日はオープンキャンパス。高校生と話せて楽しかったのだけど、講師の立場からすれば、ゼミナールは失敗。解答の講評をしたのだけど、解答に含まれていたいくつもの含みを見落としていたことに後から気づいた。こういうのは一度だけの真剣勝負。じぶんの言葉に込めた意味を相手が読めないと思ったひとは、それっきり二度とは戻ってこない。
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2013年06月15日

最上の責め言葉

一度だけ、締め切り切れの論文原稿を督促する電話を受けたことがある。
「別に先生を責めているわけではないのですが‥‥」。
いやむしろ、もっと責めて欲しいのだ。こちらが100パーセント悪い
ことはわかっているのだから。「‥‥言いにくいのですが、
先生の原稿がないと出版ができませんので‥‥」。
紳士的な言葉を使わないで欲しいのだ。
一方的に約束を破ったのはこちらなのだから。

「たとえあなたがどのような方であろうと、
私はあなたのすべてを受け入れます」という愛情に満ちた言葉ほど、
ときに残酷に響く責め言葉はないのかもしれない。
神さまでさえ、ときには怒らなければならないのも、
そういう事情によるのだろう。
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2013年06月14日

山田の向こうの山田

suika.jpg
どの漢字を使ったらよいのかいつも迷う言葉がある。
「こえる」だ。長いあいだ、「越える」と「超える」、
どちらを使うかでぐらぐら揺れている。

もちろん文脈にもよるのだけど、院生のころは好んで
「超える」を使っていた。じぶんが明らかにしようとしているものは
「超える」ものにちがいない。「越える」では弱い気がした。
実際はさしてちがわない意味なのかもしれないが、ぼくのなかでは、
「越える」は同質のものへの変化であり、「超える」は質的に異なる
――しかも優(上)位にある――ものへの変化という印象があるのだ。

中学に入って間もないころ、地区の山に登ったことがあった。
山の向こうになにがあるのかどうしても見たかったのだ。
そこはもう大阪なのだと聞いていた。稲も作れそうにないような
山田を過ぎて、うっそうとしげる熊笹をかきわけて、
やっと山の頂にいたった。視界が開けた。見下ろしたそこには、
こちらとなにも変わらない山田が広がっていた。
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2013年06月13日

案山子

tigers.jpg
タイガースファンだというわけではありません。念のため。
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2013年06月12日

オープンキャンパスですってば。

question.jpg
6月16日(日)は、今年度最初のオープンキャンパスになります。
詳しいことはこの辺を見ておいてください。

いろいろ企画はあるのですが、そうですなぁ、
ぼくの一押しは、「教育・心理学科 在学生による学び紹介」かな。
二人ががんばっている様子を、本当は見に行きたかったのだけど。

もうひとつは、「わたしの研究室 ちょっとのぞいてみませんか?」
個人研究室を開放してそこで話すことを狙いにしたプログラムなんて
ほかにはないと思う。たぶん。

ちなみに、ぼくは「体験!つながるゼミナール<絵本から学ぶ>」の第二回。
今回のテーマは、キノコ概論「新美南吉『手袋を買いに』を読む」。
ゼミナールを終わってからは、ぼくの個研を開放してもいいと思っているので、
お茶を飲んでだべりたいひとは、まずゼミナールに来てください。^^
(写真はNさんの好物。オープンキャンパスとは関係ない。)
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2013年06月11日

パーフェクトゲーム

日本学生支援機構から、奨学金返済の免除通知が届く。
卒業してからの長い長い手続きをへて、ようやく完全免除となったのだ。
「これまでの諸手続きにご協力いただきありがとうございました。
あなた様のこれからのご活躍を心よりお祈りいたします。」

ぼくは宗門の財団からも奨学金をもらっていたから、合わせれば、
相当の金額をもらうだけもらって、一円も返さず、今日に至っている。
これらの奨学金がなければ、いまのぼくはなかった。
もらえなければ、あるとき、ふっと消えていただろう。

だから、ただでさえめちゃくちゃ感謝していて、
いま生きていられるのはそのおかげだと思っているほどなのに、
すべてを与えた最後の最後に、なおこちらの幸せを願うような言葉で
締めくくられてしまっては、もう、ぐうの音も出ない。

こういうのを “愛の二重攻撃” と言うのか、“やさしさの二毛作”
と言うのか、“√慈悲”(ルート慈悲)と言うのかはわからない
(われながら、頭を抱えるばかりの命名センスのなさ)が、
この攻撃でほだされないひとなど、いるのだろうか。
ぼくもなにか社会に返せるように努めますって。
posted by pilz at 22:48| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月10日

6月10日、曇り

otsu.jpg
ふだんあまり使わない電車に乗っていたら、病院が見えた。
こんなところに病院があったんだ‥‥と思って病院名を見たら、
じぶんが生まれたと聞いていた病院だった。

あ〜あ、いままでなんどもとおっていながら、
一度も、そこにある病院のことに気づくことがなかったのだ。
そうか‥‥そのむかし、ぼくはここで生まれたのか‥‥

不思議なもので、清沢の生誕地にわざわざ出かけたりしていたのに、
ぼくはじぶんじしんの生誕地を知らなかったのだ。
といっても、清沢の生誕地に行くことがなかったら、
ぼくがこの病院に気づくこともたぶんなかったろう。

そうなのだ、きっとこれまでもその病院を見ていたのだが、
ぼくのなかに「生誕地」という考え方がなくて、
その病院とぼくとを結びつけるものがなかったのだ。

ひとを知ろうとすることは、じぶんを知ろうとすることにも
なるのだ、それでいいのだ、と、きのこ日記には書いておく。
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2013年06月09日

才人と出会う方法

kanna.jpg
あとあと響いてくる言葉を発するひとがいる。
すぐには言っていることがわからなくて、数年後にわかるのだ。
あっそうか、あのときの発言はこういうことだったのか、といった具合。
ぼくは鈍だから、言葉数の少ない、頭のよいひとたちの言うことは
ほとんどこんな調子で、すぐには理解できない。

最近は明治時代に生まれたひとたちの勉強をしていて、
そのひとたちはけっこう長命で、ぼくが生まれたときも存命だった
ひとが多いのだが、できればひと目でも会って、あれこれと質問したかった、
などと思っている。が、たぶん、ぼくがこういうひとたちが考えたことに
興味をもてるのは、その言葉を彼らが何十年も前に語ったからなのだ。

このひとたちのなかには発言が周囲に受け入れられず、
コミュニティから追放された経験をもつひとも多く、
それをぼくはいかがなものかなどとえらそうに考えているが、
じつのところ、彼らと同じ時代に生きて生で彼らの声を聞いていたなら、
その当時の周囲と同じように、彼らを追放しようとしたにちがいない。
そして、何十年かしてしまった!と後悔したにちがいない。

同じように、もう人類の歴史上に残るようなとてつもなく頭のよいひと、
たとえばソクラテスなんてひとがいたのだが、ぼくが彼の考えに
わずかでも興味をもてるためには、何千年かの時間的隔たりが必要だった
のだろうと思う。同時代に生きていれば、短絡的なぼくは必ず
ソクラテスを処刑せよ!と叫んでいただろう。

才人と凡人とのあいだには時間的な隔たりが必要なのだ。
でもこれは、時代を隔たることによって凡人も才人と出会える、
ということを意味してもいる。
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2013年06月08日

小さな天才

shinko.jpg
ときどき、独特の言葉づかいをするひとに会う。
それは特殊な方言であるとか、異国の言葉というのではなく、
ごくふつうの意味のことを言っているのだが、
他のひとと、ほんの少しだけ表現がちがうのだ。

たとえて言えば、立方体の木片があるとして、
それは他と同じ立方体でありながら、うんっ?
と目をこらすと、ひじょうに微妙で精巧な面取り
(わかりますか?)がしてあって、他と同じではない。

誰かに聞いた言葉、どこかから読みとった言葉を、
右から左、上から下へ移動させることなら、ぼくでもできる。
ぼくの言語運用能力ではうまく説明できないが、こういうひとは、
じぶんのなかにちょっと変わった溶炉をもっていて、
経験から得たデータをその溶炉で溶かし、じぶんだけの言葉にするのだ。
そこから出てきた言葉は、たとえ、一行のフレーズでも、
「そのひと以外の言葉ではない」と告げる刻印をそなえている。

こういうひとは学生のなかにもいる。
その比類ない(とぼくが確信する)オリジナリティーに、
ぼくは 「“小さな天才”である」と心のなかで勝手な認定作業をするが、
当人は気づかない。ぼくもめったなことではそれ告げないから、
学生はそれに気づかないままに生きていく。

ただ、ぼくはそういう才人と話すのが大好物だから、
いつまでもそういうひとたちと話している。
じぶんだけ秘かに美味しい思いをしている、というわけ。
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2013年06月07日

頭の悪いひとの生き方

この人は頭がいいなぁと思うひとには、根拠はないけど、
思考パターンにひとつの特徴があるような気がする。
どんなささいなことにかんしても、「いろいろな方法のうちで、
もっとも効率のよい方法は何か」をいつも探しているということだ。

この場合の「効率のよい」というのは、「ごちゃごちゃしていない」
という意味なんだけど、「単純な」とも「合理的」とも言っていい。
頭がよければよいほど、この単純さが際立ってくる(ただ、
この単純さがゆきすぎてしまうと、物事の区別がつかなくなって、
天才をとおりすぎてしまう)。この単純さを、
ムダをそぎ落とした優美さと言うひともいるだろうし、
「エレガント」と表現するひともいる。

ぼく自身は、こういうエレガントさには縁がない。
昔、ぼくの友人のなかに、こいつはちょびっと天才的だなと思える
のがひとりいた。こやつと、とあるロールプレイングゲームをしたとき、
そのプレイの仕方が、ぼくとまったく違っていることに気づいた。
ぼくがあらゆる場面で考えうるあらゆるコマンドをひととおりやってみて、
すべてのものを総ざらえして次のステージに進むのに対し、
そやつは最低限のコマンドで先に進むのだった。

その効率のよさというか、まさしくエレガントさには驚かされた。
逆にそやつにすれば、ぼくがまったく不要に思えるコマンドを行っている
“醜さ” の理由がまったく理解できないようだった。
二人のあいだには、人間としてもっている資質に決定的な差があったのだ。

でも、ぼくがそれにめげていたかといえば、そうとも思えない。
ぼくはゲーム中にもうひとつのあることに気づいていた。
友人とぼくでは、クリアまでの時間という意味でこそ友人に分があったが、
レアなアイテムの発見確率という意味では、明らかにぼくに分があった。

どんな場所でもあらゆるコマンド(そのなかには「さがす」も含まれる)
を試すぼくは、ときにはゲームのクリアとはまったく関係ないような
意外なアイテムまで発見することになったのだが、友人には
そんなことはなかった。この経験がその後のぼくの人生にも
少しぐらいは影響をおよぼしたのかどうか、それはよくわからない。
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2013年06月06日

添削の憂鬱

今日もレポートの添削。なんども書き直しを命じるものだから、
ぼくのレポートの添削は基本的にうらみをかってしまう。
やればやるほど、学生たちにきらわれる。
じぶんの文章をぐいっと180度ねじ曲げられて、
うれしい者なんているものか。

きらわれて楽しいことなんてなにもないが、
どこかで指導しておかないと、いつかバカだと思われて、
不利な扱いを受けるだろうから、やらざるをえない。
文面で全人格を測られることなんて、ざらにあるものなのだ。

添削を念入りにやっておいて、いいこともある。
これを1年生のうちに念入りにやっておくと、
2年生のコース決定のときに希望者が少なくなるので
その後のゼミ運営が、少人数になって楽ちんになるのだ。
posted by pilz at 23:49| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月05日

つかみグッズ

朝から電話が鳴り、高校生が個研にわんさか来るという連絡。
ぼくはそのスケジュールをすっかり忘れていたのだが、
そのあたり、二次元氏は抜け目なく、こっちが忘れる可能性が
あることを察知していて、フールプルーフをかけている。
なんせ、昔、二次元氏が担当者だったときに、
アエラのコラムの締め切りを2回忘れたもんね。

今回は例の清沢シリーズが12回あるので、これを忘れては
G君に迷惑をかけると、なんとか忘れないようにしている。
第4回の原稿がだいたいできたけど、あと8回、
なんとか忘れずに書ければいいのだが。

また話がそれました。そうでした。個研のことでした。
高校生たちが興味をもつのは「芝生キノコ」と、
「モアイティッシュケース」ばかりなのであった。

理想を言えば、このぼくに興味をもつべきなのであるが、
そこはまだ年若い高校生、少しばかりの未熟さは大目に見るしかない。
とはいえ、「芝生キノコ」と「モアイティッシュケース」こそが、
ぼくの必殺の「つかみグッズ」なのである。
posted by pilz at 23:31| 京都 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月04日

太田順一『化外の花』(けがいのはな)

今日紹介するのは写真集です。
いつも一般受けする本は紹介しないのですが、
この写真集は相当に変わっていて、極めつけです。なんせ、
「化外」(法的権力、王権の及ばない地域)というくらいですから、
“アウトロー” だと自己主張している “花の写真集” なのです。
ただし、甘ったれた軟弱なアウトローではありません。
骨太のアウトローなのです。

あんまり売れそうもない写真集(失礼!)ですが、
ぼくがたまらなく惹かれるのは、この写真集がぼくの偏見を
完膚なきまでに打ちのめしたからです。
ぼくにとっては、殺風景とは、ひとに見捨てられた、
それゆえに可能性のない場所であり、生命感のない場所です。
写真集の主たる舞台は大阪湾岸埋立地の重工業地帯
(かつて小野十三郎が「葦の原」と呼んだ地域です)の一角。
まさにぼくが殺風景を感じる場所。

太田は、そのような人間に見捨てられた場所でたんたんと
咲き続ける花を撮り、花を通じて、殺風景であることと
生命がないことには関係がなく、人間の統制があるかどうかと
花が咲くことには関係がないこと、いやそればかりか、
歪んだ統制はときに生命にとって重荷になる
場合があることを知らせるのです。

太田にはハンセン病療養所を撮った写真集があります。
かつてハンセン病療養所の人々が置かれた立場と、
重工業地帯の一角に咲く花、そこに「化外」という
共通性を見ているのです。太田は言います。
「自分もまた〈化外の民〉でありたいと願っています。」
posted by pilz at 22:55| 京都 ☀| Comment(0) | 好きな本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月03日

危険物拾得係り

こういうことを書いていいのかどうかわからないけど、
付き合うひと、付き合うひとが、目を覆うばかりのひとで、
あぶなっかしくてしかたない‥‥といったタイプがいる。

ひとの恋路のことなんか、口出ししても恨まれるのがオチだから、
よほどの危険領域にでも入らないかぎり、内心、
あ〜も〜なんとかならんものか‥‥と思っているいるけど、
なにも言わずに黙っている。

ふたつ、言えることがある。

ひとつは、そういう “危険物拾得係り” が危険物を
ひろうときには、危険物をこそ目標にしてひろってくるのであって、
けっして間違えてひろってくるのではないこと。

もうひとつは、危険物拾得係りは協調性をもたないのではなく、
むしろ、危険物にさえじぶんを合わせることのできる、
きわめて高度な協調性をもっているということである。

もっと書こうと思っていたが、ねむいから寝るのだ。
(-_-)zzz・・
posted by pilz at 23:25| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月02日

磨けば光る

seta02.jpg
高校の先生が「どんな子も磨けば光る」だったか、
「磨いて光らない子はいない」のようなことを言っていて、
先生らしい先生だな、と思った。

石が好きなひとだったらわかると思うけど、
たしかにどんな石でも、磨いていけばぴかぴかする。
石それぞの光り方をするし、石どころか、
泥だんごだって、念入りにみがけばぴかぴかになる。

それで、原石(原泥?)みたいなものに働きかけて、
光るものとしていくというのは、まことにそのとおりだと
思うのだけど、「光るようなる」こと以外にも大切なことは
ないのだろうかとも思うのだ。「そのままで光である」という
ような考え方はだめなのだろうか、と。

このことを考えるたびに思い出すのは、知的障害者福祉に
たずさわった糸賀一雄の「この子らを世の光に」という言葉。
哀れみの感情からこの子らに光を当ててやろうということではなく、
この子らじしんが世の光になるのだ、という言葉。

ただ、ぼくは糸賀の思想をちゃんと勉強したわけでないから
いいかげんなことを言ってはいけないのだけど、糸賀もまた、
どんな子どもも磨けば光る原石だというニュアンスを含めている
ような気もして、やっぱりそうであるべきなのかな、
どう考えたらいいのかな、といつも堂々巡りになる。

ぼくは昔から○○にならなきゃならない、と考えるタイプで、
その意味で、冒頭の高校の先生の考え方に共感するのだけど、
ぼくのこのような傾向は、ややもすると厳格鋭利なナイフとなって、
幼いころから周囲のひとたちを苦しめ、傷つけてきた。
郷里の台所にあるテーブルには強い筆圧で文字を練習しよう
とした跡形が残っていて、見るたびに、
「地獄は一定すみかぞし」という言葉が降って来る。

ちょっと暗いことを書いたようだけど、
ここに書いたことは、昨日今日にはじまったことではなく、
ず〜っと昔からのぼくの基盤のようなものだから、
誰も、少しも気にする必要はない。
posted by pilz at 23:17| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする