2013年07月31日

関空での気分

明日はAO入試のセミナー。
いよいよ、本年度の入試のはじまりなのだ。
「いよいよ入試がはじまりますが、現在のご気分は?」と、
誰も問うわけはないだろうけど、問ったとすれば、
まず、「わくわく、ではないですなぁ」と答える。

つぎに、「どきどき、でもないですねぇ」と答える。
「だったら、どういう気分なのです?」と聞かれれば、
「そうですなぁ、星空を見るためにどこかの離島へ
出発するときの関空での気分でしょうか」と答える。
だから、わかりにくい記事を書くなって。
posted by pilz at 23:48| 京都 ☁| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月30日

「誰がそれを、どのように準備したのか?」という視点

二次元氏に案内されて行けば、そこは、
いつもの学生スタッフたちが作業を手伝っている
袋詰めの場所なのであった。まさかこういうことによって
オープンキャンパスが成り立っているとは‥‥大方の教員、
いや、入学センター以外の職員も知らないのだろう。

たとえばなにかが上首尾にいったとき、
たとえばなんらかのプログラムが大過なく動いたとき、
その下準備を誰が、どのようにしたのか?ということは、
いつも携帯しておかねばならない視点なのだ、と
キノコ日記には書いておこう。
posted by pilz at 16:59| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月29日

仕事

「追求心がなければ仕事は作業になっちゃう」というのは、
とある江戸前うなぎ職人の言葉なのである。なるほどなぁ。
同じ状況にたいしても、つねに自前の課題をみつけて、
問い詰め攻め立てていかなければ、たんに流れてきたものを
右から左に流す作業になってしまう。そこには
“じぶんの仕事” はないのだろう。

研究や学問というのは、こういうふうに問い詰め攻め立てていくことであり、
大学の役割というのは、学生がよく生き続けることができるように、
こういう姿勢を習慣化するのを助けることなんだろうけど、
そういうこと、うまく伝えられているだろうか。
posted by pilz at 22:40| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月28日

「自己推薦書・小論文講義」のお知らせ(8月3日、4日)

8月3、4、5日に開催するオープンキャンパスにおいて、
「自己推薦書」と「小論文」の書き方についての講義を行います。

日時:8月3日 13:00-13:40
日時:8月4日 14:00-14:40
場所:1号館 2階 1214教室
担当:ぼく

AO入試のセミナーが8月1日にはじまりますので、
今回は自己推薦入試と公募制推薦入試A方式(小論文型)の際に課される
自己推薦書と小論文の書き方についての講義です。

自己推薦書も小論文も、べつにむずかしいものでもなんでもなく、
ただ「書き方」を知っているかどうか、が成否(人生?)を分けます。
みなさんが試験場で困ることのないように、
講義では、具体的な書き方を教えます。

事前申し込みとかは不要です。お父さんもお母さんも、
高校の先生も、どなたでもお越しください。
posted by pilz at 11:08| 京都 🌁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月27日

百日紅

saru.jpg
posted by pilz at 22:51| 京都 ☁| Comment(0) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月26日

反省と感謝

「南無阿弥陀仏とは何か」という講話を聞いて、
お斎(とき)の時間になる。

まさか‥‥とは思っていたが、やはり怨敵(鶏肉)だった。
くつくつ煮込んだ怨敵。こればかりは食べられない。
怨敵に接触したオクラも不可、怨敵の煮汁に浸る里芋も不可。
つくってくださった方に申し訳ないと思いながらも、
手を付けないままのおかずの器を返却する。
おかゆだけ、いただいた。

幼いころ、祖母のおかゆと母のおかゆは濃さがちがった。
ぼくはどちらかといえばさらさらのおかゆが好きで、
母のおかゆを好んだ。でも、母は遅くまで働いていたから、
体調を壊したりしたときにおかゆをつくってくれるのは、
おおかた、祖母の方だった。布団から身を起こし、
少し重い目のおかゆを、ぼくはしみじみ食べた。

星空を見上げては、なぜ沈黙するばかりでなにも答えないのか
と恨んで、ながく人間を信用せず、ときにはそんなことを
誇りにしていた節さえあるけれど、よくよく思えば、
愛情をそそいでもらっていた、ということなのである。

暁天講座の終わりのお斎の時間には、反省と感謝の気持ち、
ごめんなさいとありがとうが去来する。
posted by pilz at 08:24| 京都 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月25日

クリームあんみつ

mitsumame.jpg
明日は超早朝から暁天講座。
昨年はO先生の「びっくり暁天」発言に、
びっくり仰天したのであった。

写真は「みはし」のクリームあんみつ。
あんみつが食べたくなったので。
posted by pilz at 23:34| 京都 ☀| Comment(0) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月24日

MVP

ちょっと飲んでおりましたのじゃ。
明日の準備ができていないのに、やばやばなのだけど。
意外とC関係のことでほめてもらったことがあったので、
忘れないで、明日、Cの職員に伝えることにしよう。
そっか〜それがMVPだったのか‥‥
そっか〜もうそれの効力があったのか‥‥

それにしても、ぼくが言ったことを意外に覚えて
いるひとがいて、驚いた。
posted by pilz at 23:20| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月23日

ふたばの豆餅な人間観

ある精神科医の言葉に感銘を受けたことがあります。
これは、これまたかつてぼくが感銘を受けた書、笠原嘉『精神病』
に引用されていた言葉で“孫引き” になってしまうのですが、
望ましい治療者の自然な態度とは「おだやかなオプティミズムで
修正されたリアリズムであろう」という言葉です。

この言葉はときに非情にむずかしい治療をおこなわざるをえない方の
言葉なのでこういうことになるのでしょうが、ぼく自身は、
日々の生活を送るにあたって、さまざまにかかわるひとたちたいして
(そこには自分自身も含む)、それなりの紆余曲折を経て、
いまでは「おだやかなリアリズムで修正されたオプティミズム」
で臨(のぞ)むのがよいのではないかと思うようになっています。

しかしそれにしても、リアリズムとかオプティミズムといった
言葉はむずかしいですね。「リアリズム」は現実主義、
「オプティミズム」は楽観主義を意味します。これでもわかりにくい
と思うので言いかえると、「おだやかなリアリズムで修正されたオプティミズム」
というのは、ちょうど、京都の「出町ふたば」の豆餅のようなものです。
餅に含まれるわずかな塩味加減が絶妙で、中の餡をしつこくない
上品なものに仕上げています。品のないオプティミズムは
単なる軽薄にすぎず、批判を欠いた思いこみはやがて絶望に至る。

ともかく、まだお召し上がりになっていない方は、一度ご賞味を
posted by pilz at 22:09| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月22日

ラブレター

廊下のソファーに座って、ひとを待っている。
前をY学科の先生がとおりすぎる。そのあとを追って、女子学生。
「せんせぇー、わたすもんあんねん、ラブレターとちゃうでー」
大学で学生が教員に使う言語例として、まさか
そんなものがじっさいに可能とは‥‥_| ̄|○

去年からこの仕事をはじめて、
それまで以上に感じるようになったのは、
ぼくの学科とKB学科、K学科、Y学科とのちがいであった。
大学の出版物をみていると、ぼくの学科は、
S学科とかB学科とかR学科のそばに書いてあって、
そういう学科とはある意味、精神的な距離は近いような
気もするのだが、Y学科なんかはひじょうに遠くて、
学生をみていても、同じ大学でも異質のような気がする。

たぶん、いまの学科で150年ぐらい教員をしていても、
冒頭のような発言を聞くことはないだろう。といっても、
ぼくはそんな発言をしないだろう自分の学科の学生が
とても気に入っているし、ラブレター学生がイヤなわけじゃない。
その学生の発言を聞いて、3ヶ月くらいY学科の教員をしたら、
ぼくも新しい引き出しを身に付けることができるかもしれない‥‥
と真剣に考えたものだ。教員を育てるのは学生なのだ。

あっそうだ、いま気づいた。
たとえば、冒頭のラブレター学生が話しかけた教員が
もしぼくの学科に引っ越してきたら、ぼくの学科の学生から
「ラブレターとちゃうでー」とかなんとか言われるのかもしれない。
とすると、問題は学科の特性じゃなくて、ぼくの個人的な
キャラクターということになるね、あ〜あ。
posted by pilz at 22:24| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月21日

自己不満

今日は今年度二回目のオープンキャンパスだった。
最初のプログラムからマイナーミスを連発。理由はわかっていて、
仕事量に見合うだけの思考の準備ができなかった‥‥という、
オーバーフローからのミス。ゼミナールでも単純なミスをやらかす。
無理を言って試験前の学生たちに手伝ってもらったのに、
ふがいない。ただし、問題点は今回確認したから、
もう同じミスはしない。

卒業生たちと飲みに行った‥‥つもりだったが、
一滴もアルコールを飲まずに、一次会だけで散会。
posted by pilz at 23:16| 京都 ☁| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月20日

対話をするとは、生きるための抗体を投げ合うことである。

先日の記事で、つぎのように書いた。
ぼくらがひとに会うというのは、たがいに飛沫を出しあって、
それを共有してしまうことでもあるんだろうな、ということであった。
自家製の飛沫のなかにウィルスや細菌をしのばせて、
投げ合っているような状態なのである。

でもこれね、ちがうようにもとれるよね。
ひとに会って話すということが自家製の飛沫を飛ばして、
飛沫交換をすることかもしれないとしたら、飛沫に抗体を
しのばせて投げ合い、抗体交換をし合うこともできるのだ。

ぼくは経口摂取の抗体がどう働くのかはよく知らないけど、
そんなことなら、たがいにたがいをまもるというような感じで、
けっこう喜ばしいこともできる、のではないか。

投げ合うものが飛沫でなくて、言葉でもこういうことはある。
言葉に相手を傷つける細菌やウィルスをしのばせることが簡単に
できるのと同じように、言葉に、苦労して身につけた
生きるための抗体をしのばせて投げることもできるのだろう。
そういうふうにできたらいい。
posted by pilz at 21:44| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月19日

一糸乱れぬ

使うたびに取り違える言葉がある。「一糸乱れぬ」と「一糸まとわぬ」だ。
先日も、よせばいいのに「一糸まとわぬ見事な行進ですなぁ」とコメントして、
赤恥をかいた。ちなみに、「赤恥」の「赤」は恥ずかしくて顔が赤くなった‥‥
というのではなくて、「明らかな」の意味ですよ、高校生諸君。
ともかく、げらげら笑われたのである。

なんでこんなに毎回「一糸乱れぬ」と「一糸まとわぬ」を取り違える
かというと、けっこう簡単で、「乱れ」という言葉を使いたくないのである。
日頃、「ミスター品行方正」とか「歩く整理整頓」(どういう意味?)とか
言われているぼくにとっては、「乱れ」というのは避けるべき言葉なのだ。

こうして品行方正でないことを避けようとして、
かえって変になってしまうというのは皮肉なことだが、
こういうのはよくあることなのかもしれない。

というわけで、明後日21日は朝からオープンキャンパス。
オープンキャンパスというのは祭りみたいなものなんだなぁって、
今日の準備の様子をちらちら見ていて思った。祭りというのは、
じぶんがどういう全体に属するかを決める機会で、
再確認する機会のことだと思っている。
ごめん、なんのことかわからないね。
posted by pilz at 22:11| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月18日

hasu02.jpg
不忍池にて。なつかしい。
posted by pilz at 22:00| 京都 ☁| Comment(2) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月17日

無題

leaf03.jpg
虫が嫌いなひとは見ない方が‥‥
と言ってももう遅いですよね。
posted by pilz at 22:48| 京都 ☁| Comment(0) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月16日

対話をするとは、鍋をつつき合うことである。

風疹のことが話題になる。はしかほどではないにしても、
感染力が強くて困った伝染病だ。どうやって感染するかと聞いたら、
飛沫(核)感染だという。ゼミの学生がひとり感染して、感染が判明するまでに
一日会っていて、抗体があるかどうかを調べたら、なかった、まずい、
という話なのである(ちなみにぼくには抗体がある)。

この話をしていて思ったのは、ぼくらがひとに会うというのは、
たがいに飛沫を出しあって、それを共有してしまうことでもあるんだろうな、
ということであった。自家製の飛沫のなかにウィルスや細菌をしのばせて、
投げ合っているような状態なのである。

飛沫といえばくしゃみや咳だけで飛ぶものだと思うひともいるかもしれないが、
口を開けてしゃべれば、いくばくかのものは飛んでいるはずなのである。
きっとこういうことをするとひとを神経質にさせてしまうから誰もしない
だろうが、特殊なカメラでひととひとが話す状態を撮ったりしたら、
おそるべき “飛沫交換” のさまが映し出されるにちがいない。

といっても、そんなに神経質になる必要はないよ。
みんな、鍋とか食べるでしょ? 部屋や会議場で話すというのは、
ごく軽〜く、いっしょにお鍋をつっつくようなものなんだ。
(申し訳ありません、つぎは品良く書きます。)
posted by pilz at 08:29| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月15日

生きる力を培う教育

世間は連休だが、大学は「祭日」とは無関係。
いつからか、大学には長期休暇以外の連休はなくなった。
そういうわけで、今日も、朝イチから学生たちは授業に来ている。

大学のよさってのは、きっと中高よりも豊富な種類のことに
チャレンジできて、ときにミスって、窮地に追い込まれて、
そこからどうやれば脱出できるかを覚えるまたとない機会であること。
大学のときぐらい、休ませて、遊ばせてやったらいいのに‥‥
3連休ぐらいを与えて、どこか遠くに行かせてやったらいいのに‥‥
そして、窮地から脱出する、生きる術を学ぶ機会にさせてやったらいいのに‥‥
画一的な “プレゼンおたく” みたいな学生ばかりつくっても仕方ないのに‥‥
と、ちっともゼミでは遊ばせない教員が言っているのである。

先週は3年生と4年生に、夏休みを挟んだ絶望的な課題をメールして
ゼミの日を迎えたら、このうえなく薄暗いゼミになりました。
ゼミが終わってから、いつものように学生がたくさん来るかと思って、
お菓子とかを用意していたのだけど、見事、
ほとんど誰も来なかったのでした。
続きを読む
posted by pilz at 22:00| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月14日

雷と臍(へそ)

raijin.jpg
今日も盛んに雷が鳴っている。

「地震、雷、火事、親父」という言葉があるが、親父はともかく
地震も雷も火事も怖い。祖母はとても雷を怖がっていて、
孫が出歩く際には必ず雷除けのお守りをもたせていた。雷が鳴りはじめると、
「電線を通って雷が入って来よるから、早う、テレビのコンセントを抜き」
と決まって言いに来たものだ。「はいはい」と言いつつ、
荒唐無稽(こうとうむけい)の迷信とばかりに一笑に付していたが、
後に雷にパソコンをやられて、なんでもかんでも疑ってかかるのはよろしくない、
と痛く反省する破目とあいなった。

雷は雷さまとして擬人化されて、臍を狙うと言い伝えられてきた。
まさか人間のかたちをした雷さまが雲の上でどんどんと太鼓を叩いている
とは誰も思わないだろうが、雷と臍には関係があるのだろうか。
雷が鳴って雨が降ると気温が下がるから臍の出るような服装をしては
ならぬということだろうと長く思っていたが、違う理由も考えられるだろう。
臍が出るというのは背筋を伸ばして頭を高くしている姿勢で、
雷の鳴っているときには危険この上ないのだ。

昔の子どもたちが臍の出るような服装をしていたのかどうかは知らないが、
近頃の女性の服装には、雷さんたちもさぞやお喜びのことだろう。
雷さまとは、ぎらぎらした男性の比喩なのかもしれない。
posted by pilz at 17:45| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月13日

個人研究室訪問企画(オープンキャンパス)

koken03.jpg(画像をクリックすると大きくなります)

谷大のオープンキャンパスでの名物(もうそう言い切ってしまうのだ)企画のちらしができましたので貼っておきます。モザイクになっている箇所はそんな簡単には見せまへんで、的なところです(じっさいのチラシはモザイクになってないので、念のため)。個研に来て見てください。

大学には大きな教室、小さな教室での授業がありますが、授業以外の時間に、こういう場所で学生同士でだべったり、先生としゃべったり、お茶を飲んだり、お菓子を食べたり、なにもしないでぼぉ〜っと座っているのも大切な勉強の機会なのです。

狭い空間だけだと窒息してしまいますが、一方で、だだっぴろい空間には安心がありません。だだっぴろい場所で疲れたときには、蛸壺のなかでだら〜んとしておればよいのです。“積極的な意味での蛸壺的教育” ですね。
posted by pilz at 09:13| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月12日

投げるということ

鈴木大拙の文章を読んでいて、幼時に体験した肉親の葬儀の際に、
ほかのことはまったく覚えていないのに、埋葬(土葬)の際に
一握りの土を投げ入れたことだけを覚えている、
という文章があって、はっとした。

ぼくも幼いころに一度だけ親族の土葬を経験していて、
ほかのことはほとんど覚えていないのに、深々と掘られた墓穴に
一握りの土を投げ入れたことを覚えている‥‥ような気がしたからだ。
そしてなんの脈絡もなく、誰かの葬儀で、棺のなかに無言で花を
投げ入れていたひとのこと、いつだったか、取り憑かれたように荒れ狂って、
観客にじぶんの排泄物を投げていた動物園のゴリラのことを思い出した。

投げるという行為にはどういう意味があるのだろうか。
ぼくらはいつもじぶんの思いをどこかにめがけて投げているだろうけど、
それが投げきれない、投げても受け入れられないとき、
心以外のものを投げるのだろうか。
posted by pilz at 22:00| 京都 ☀| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月11日

繰り返し

これはよくないよなぁと思っていた曲なのに、
テレビで何度か流れるのを聴いてるうちに知らず知らずのうちに
好きになっているのに気づく。あぁまた商業主義に落ちてしまった
と嘆くが、好きになってしまうものはどうしようもない。

繰り返し聴くと好きになるのはどうしてだろうかと思う。
たぶん、見慣れない、聞きなれないものには心のバルブを絞めて
警戒しているのだが、慣れてきてようやくバルブを開けはじめるのだろう。
逆に言えば、なんど聴いても好ましいと思えないのは、
よほど相性の悪い曲だということになる。慣れれば好きになる曲と、
慣れても好きになれない曲、二つを分けるものはなんだろうか。

でも、ようやく好ましいと感じるようになっても、
繰り返しの度が過ぎるとキライになる場合もある。
ある程度、新しいものも取り入れないと進歩しないからだろう。
むずかしいものだ。
posted by pilz at 22:00| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月10日

用の美

akafuku02.jpg
どこにあるものか、わかる方もおられるでしょう。
posted by pilz at 22:00| 京都 ☀| Comment(2) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月09日

表と裏

「先生の純粋なタイプの文章は、意味(=裏)がありそうで、
まじめに反応していいのかわからない」というようなことを言われる。
それは多くのひとの感想なんだろう。

まじめに反応しても、ヒッカカッタナ^▽^)ケケケとかされたら、かなわんもん。
じぶんで言うのはなんだけど、ぼくなら、やりかねん。
今日なんて、他のゼミの学生が、こわごわぼくの個研に入ってきた。
そらこわいだろうな、得体が知れないだろうな‥‥

といっても、これまでここでぼくが書いてきたことにウソはない。
純粋なことを書いたときには本当のことを書いていたし、
やさしそうなことを書いたときにもウソをついたつもりはない。
それは、たしかにあるときウソ偽りなく感じたことを書いたまで。
posted by pilz at 23:21| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

本を読むと眠くなる。

ぼくが勤めているのはそれなりに本を読む学部なのだが、
それでも、本を読むと、文字を見ると眠くなる、という学生はいる。
「絵本ならいいのに‥‥」などと言っておる。

絵本を使った授業もするが、ゼミなんかは文献を読まないと
はじまらないので、なんとか読んでもらおうとするが、
なかなかうまくいかない。

少し前まで、ぼくは読まない理由がたんなる怠惰だと思っていた。
だが、このごろはそうではないとはっきり感じるようになってきた。
読まねばならない本があることなど、当人の方がよくわかっている。
怠惰だから眠くなるのではなく、読もうにも読めないなくて、
ただ時間だけが過ぎていくから、眠ってしまうのだ。
この辺の事情を、はっきりさせたいと思っている。
posted by pilz at 22:00| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月08日

知っていると言うのなら

プラネタリウムに行った。照明が落ち、星空がドームに映し出されると、
いくつになってもどきどきする。女性の声が解説をはじめた。
(元)NHKの山根基世さんのようなやさしい声だなぁなどと思っている。
やさしい声は問いかける。「これはなんという星座でしょう?」
待ってましたとばかりに、“星自慢” の子どもたちの声が答える。

「○○座!」(×3)
「そうですね。」

勢い余って、問われてもいないのに、説明の途中で発言してしまう
子どもたちまで出てくる。まるで小学校のころの自分を見るようだ、
と暗がりのなかで苦笑いをした。そして、
小学4年のときのY先生の授業を思い出した。

Y先生はエネルギッシュな女性で、いつも一生懸命な先生だった。
ぼくは、世の中をすかして見た、鼻持ちならない生徒だった。

「植物は光合成をして、栄養をつくっているのです。」
「そんなん、知ってるわ。」
「植物が緑色をしているのは、葉緑素があるからです。」
「知ってる、知ってる。」
「‥‥‥‥‥‥‥‥(Y先生、しばし沈黙)」
「知ってる知ってるって、いったい、君は何を知っていると言うのかっ!!」
「知っていると言うなら、いま、ここで、すべてを説明してみよ!!」

Y先生の言葉に、ぼくはぐうの音も出なかった。
そのとき、それまでじぶんがしてきたことが恥ずかしいこと
だったのかもしれない、と子どもながらに気づいた。

その後、ぼくはY先生のような熱血にはなれなかったけれど、
Y先生はいつもぼくのなかに住んでいて、ときどき
むくむくと沸き上がってくる慢心を打ちのめす。

(↑この記事は投稿ミスの記事です。)
posted by pilz at 21:00| 京都 ☁| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

危険回避

uchiwa01.jpg
この時期の京都に、団扇は必須アイテムですなぁ。今日は部署の歓送迎会。
危険を察知して、あらかじめアップしておくのです。裏側は‥‥
posted by pilz at 17:09| 京都 ☀| Comment(0) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月07日

幸せの意味

hoshi.jpg
風に揺れる、か細い短冊に願いを込める。
なにかの条件で大きさが取り決められているなんてこともない。
老いも若きも、わずかな紙片にささやかな願いをしたためる。
だれも願いが叶うなんて本気で思っているわけではない。
それでも、そうせずにはおられないなにかがある。
ささやかな願いを吐露する、けなげなじぶんの姿に
酔ってみたいのかもしれない。

じぶんも酔おう。なにを書こうか。「世界が平和でありますように」。
どうせウソしか言えないなら、もっとおもしろいウソをつきたい。
「サマージャンボが当たりますように」。あまりにも生々しい。
こう書くことにしようか。「このままでありますように」。

いまの状態を維持したいという心のあり方――
たぶん、それが “幸せ” の意味なのだ。だとしたら、
いま、じぶんはそれなりに幸せだと思っているのだろう。
posted by pilz at 18:01| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月06日

パトリシア・ポラッコ『ありがとう、フォルカーせんせい』

お待たせいたしました。
では、今年前半に読んだ絵本のなかから、
個人的な絵本大賞をお知らせいたしましょう。

パトリシア・ポラッコ『ありがとう、フォルカーせんせい』
(岩崎書店)です。なになに?そんな本知らないって?だから、
ここに書いているのです。読む者を動かすことのできる本です。

で、なにがよいかということですが、
ストーリーのよさはご自身で読んでたしかめてください。
これから先生になりたい、と思うひとなら、ぜひ。

ここでは絵のことを言っておきます。絵もポラッコ。
画家による絵というのではないにしても、独特の絵柄です。
とくにぼくが好きなのは人物の表情。

「どうしてもわからない」という表情。
「やっぱりじぶんには無理なんだ」という表情。
「おもしろい! わかるようになった!」という表情‥‥。
主人公の心の動きが、手にとるように伝わってくるのです。

「おもしろい(面白い)」というのは、もやもやが晴れて、
目の前がぱっと明るくなったときのさまを表現するのだと言います。
「おもしろい!」――いくつになってもそんな表情をしてみたいし、
そんな表情に出会えたら、と思います。

ちなみに、2013年前半の次点は、
谷川俊太郎・和田誠『あな』(福音館書店)です。
この本についてはこれからいろんな授業で使うので、
ここではなにも話さないでおくのです。
posted by pilz at 22:01| 京都 ☁| Comment(0) | 好きな本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月05日

『つみきのいえ』(加藤久仁生 監督)

海底から伸びてわずかに海面から突き出たタケノコの先のような
小さな家に老人がひとり暮らしている。壁には古い写真が掛かり、
老人は床の穴から釣り糸を垂らす。なにも話さない。

そうこうするうちに、ひたひたと床に波が寄せくる。
老人はレンガを積みはじめる。やがて古い家は水に沈んで魚の住処に。
老人は、古い家の上に積み上げられた新しい家の床穴から海を
覗き込む。はじめて家族をもったときの小さな家が海底に残っている。
彼はこうして家を積み上げ続けてきたのだ。

ひたひたと忍び寄って現在を過去へと引きずり込む波は時の象徴。
海中の過去は老人の記憶。海底から積み重ねられた“つみきのいえ"
は彼自身なのだ。彼の記憶のなかで、いや、彼自身のなかで、
彼の一部となった最愛のひとは待っている。ぼんやりとした
ヴェール越しにしか大切なひとに会えないことに切なさはつのる。
だが、その切なさが「切り離されることはない」の意味であれば、
その意味をしみじみ味わいながら暮らしていくこともできるのだろう、
と信じてみたい(が、どう考えても無理だ)。

(この作品は絵本にもなっていますが、DVDの紹介です。
この作品は、ナレーション抜きでご覧になることをおすすめします。)
posted by pilz at 23:23| 京都 ☁| Comment(0) | 好きな本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月04日

365日

録画してあった「歴史秘話ヒストリア」を見てしまう。
雑賀衆の話がおもしろかったのだ。鈴木孫一が僧侶になったという
話があったのか‥‥う〜ん、ぜんぜん知らなかった。

ぼくはじっさいに会ったことのないひとを応援するようなことは
あまりないのだけど、ここではなんどか書いているように、
清沢満之というひとの思想とか生き方はもう少し知られてよいと思っていて、
いずれ、NHKの歴史番組でも取り上げられることになるだろうと考えている。
うそだと思うなら、ぼくのこの言葉を覚えておけばよろしい。
ぼくがどこぞに書いている文章も、そのために役立てばいいのだけど。

ちなみに、今日で「大路小路」を書きはじめて1年。
ご愛顧に感謝いたします。
posted by pilz at 23:27| 京都 ☔| Comment(5) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする