2014年03月31日

オリエンテーションがはじまり、春休み中はあれほど閑散としていた学校に
学生がもどってきた。わいわいがやがやとずいぶんな変わりようである。
やはり学生がいてこそ学校なのだ。校内の一角にはベンチがあって、
先日卒業した学生たちが前を行き交う女子学生たちをいつも見ていたものだ。
今もいるのではないかと見るが、もちろんいない。

校舎と校舎のあいだの小さな通路では、あの小柄な学生が大きなカバンに
押しつぶされそうになりながら歩いているのをよく見かけたが、彼女もいない。
「せんせい、ぎゃ〜」という声に驚いて振り向く。てっきり、数年前、
いつも個研にお菓子をもってきてくれた学生たちが声をかけてくれたのかと思ったが、
見知らぬ学生がほかの教員を呼び止めていた。

校内のいたるところには学生たちとの記憶が染み込み潜んでいて、
不意の歓声がそれを呼び覚ます。さぁ明日は入学式。
どんな出会いが待っているだろうか。
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2014年03月30日

××茸のこと

じつは先日、●●へ××茸狩りに行く予定があったのだけど、
(伏せ字ばっかりで、わからんね)、まぁ、
極めて魔力の強い雨男のぼくがおるということで、
いつものように中止になったのであった。

それで、ぼくは今年は××茸狩りには行っていないのだけど、
ぼくのスイバ(秘密の場所)を伝授してやった●●君はさかんに
狩っておるようで、いろんな料理をtwitterでアップしておる。
なんとも美味そうで、わずかに、いまいましい。

今年はよいタイミングで雨がたくさん降ったから、
超豊作なんだろうな。おそらくその気になれば、
フレンチやイタリアンのシェフからしたら、
何十万円分かの食材ならすぐに集めることができるだろう。

あっそうだ、昨日、東京の某大学の校内でもたくさん見つけた。
丸いタイプ。キノコは総体的に研究が進んでいないのだけど、
丸くないタイプにも丸いタイプにもおそらく、いくつかの種類がある。
生えているのを持って帰ろうかなと思ったけど、とても大切な話を
あるひとと話しているときの足元だったので、やめておいた。
突然とりつかれたように狩りはじめて、怖がられてもいけないからね。

なんかよお知らんけど、ぼくはとても大切な話をしているときとか、
よおわからん街をよおわからんままにさまよっているようなときに、
なぜか、足元に長年探し求めていたキノコとか、子どものころから
図鑑では見ていたがじっさいには見つけたことがなくて
さわってみたいと憧れていたクワガタとかを見つけるのだ。
ひゃっ!と思ったら、足元にそれがいるのだ。

欲しいものは「××命」とかいう感じで欲望丸出しで求めている
ときには手に入らなくて、無心になったときに、向こうの方から
勝手に近づいてくるような気がする。やっぱり大拙的か。
残念ながら、まだ、うちの大学では××茸を見つけたことはない。
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2014年03月29日

のぞみより速いもの

こだまは音速でひかりは光速だから、ひかりの方が速いんだろうけど、それよりのぞみの方が速いのはどうしてだろう。思考は時空の制限を受けにくいからということなのだろうか。「パンセは深淵を包む」か。

だったら、同じ思考というか心の働きのなかでもっと速そうなものはあるだろうか。「よくぼう」は速そうな気がする。裸足で走りだすような。「よくぼう」だと生々しくて夢がないという向きには、「ゆめ」か。

大拙なら「れいせい」と言うだろうか。「包む」どころか、「そこ」が「そこ」のままで「ここ」でもあるような世界。若いころはこういう世界に憧れたが、いまではとんと。というわけで、のぞみの車中。
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2014年03月28日

今日は

Cのお疲れさま会でありました。これで今年の業務はおおかた終わりということで、ひとつの区切りになります。入学式は満開の桜のなかで、ということになるのでしょう。
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2014年03月27日

「なぜキノコが好きなのですか?」

kinoko10.jpg
答えは簡単で、幼いころに母に近所の山にキノコ狩りに連れて行って
もらったときのことがうれしくて、それがいまでも忘れられないからです。
そのとき採ったキノコは、せいぜい5センチほど、イクチという
可憐なキノコなのだけど、それを見つけたときのトキメキは
きっと死ぬまで忘れられそうにない。

長く生きていればうれしいことなんかたくさんあるはずで、
なぜその出来事が特別なのか?と聞かれると困ってしまうのですが、
はたから見るとたとえささいに見えるようなことでも、
そのひとにとってはとても大きなことで、下手をすると生涯にわたって
ひとを苦しめ続けるような悲しみがあるのと同じように、
はたから見るととてもささいなことに見えても、生涯にわたって
ひとをささえ続けるような喜びがあるのかもしれません。

昔、ジークムント・フロイトというひとがいて、そういう悲しみを
「トラウマ(Trauma)」(ドイツ語で夢の意味、ギリシャ語の傷に語源する)
と言ったのだけど、この喜びを「フロイデ(Freude)」(ドイツ語で喜びの意味)
と言ってみてもおもしろいかも。ちなみに、フロイト(Freud)という苗字は、
フロイデと同じ語源で、フロイトは「喜びさん」、なんですね。
(「中高生からの問いに」vol.7)
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2014年03月26日

ノスタルジア

ひとから聞いた、遠い昔の話です。
京丹波町に白土(しらつち)というところがあって、
その昔は、店がたくさんあって、ずいぶん賑わっていたそうです。

ある日、白土に、山奥から少女がひとり出てきたのですが、
そのあまりの賑わいに「ここは京か?」と聞いて、
周りのひとは「京はここの三倍やで」と答えたそうです。

その子も、もうこの世にはいないわけですが、
眠る前にこの話を思い出すたびに、その子のことが気になって、
胸のところが少しうずくような感じがして、
眠りに入るまでに、しばしなにかを考えてしまうのです。
posted by pilz at 22:00| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月25日

ジレンマ

近所の山の雑木林にふらふらと分け入ると、そこここに
秘密基地の残骸がある。近所の子どもたちが作ったのだろう。
散乱するノコギリやら板切れやらを見ていたら、
一気に子どものころにタイムスリップして、
なにやら甘美な気持ちになった。

甘美さとは、家や親からの独立心を満たしたというような
手放しの歓喜ではない。世のタブーを密かに破った後のような、
後ろめたさがどこかにへばりついて
離れないような複雑な喜びなのだ。

親も知らないような空間でわずかな仲間と秘密を共にするのが、
秘密基地のよさなのだろう。そういう意味では、
一部のコミュニケーションツールは、もはや子どもではない
大人の仮想空間上の秘密基地なのかもしれない。

だが秘密とはむずかしい。誰かに知ってもらいたい、
共有してもらいたいものでありながらも、
すっかり知られてしまえば、それはもう秘密ではないからだ。
ひとは秘密との距離感に四苦八苦する。
posted by pilz at 22:58| 京都 ☁| Comment(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月24日

『清沢満之―その精神(にんげん)にせまる―』発刊

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『清沢満之―その精神(にんげん)にせまる―』が発刊されました。
1年にわたって『文藝春秋』に書いてきた「人間・清沢満之シリーズ」、『朝日新聞』掲載のインタビュー記事、藤田正勝先生と安冨信哉先生によるシンポジウムという三つの企画が収録されています。G君との共同作業で、研究者にも、一般の方にも読めるようにまとめたつもりです。全67頁。
遠方の方でも、200円(2014年4月1日以降は205円)分の切手を送付いただければ、折り返し送ってくれるそうです。
詳細はこちらを。(K課のみんな、お世話になります、ぺこり。)

以下、中身の一部を。
kiyo02.jpg
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posted by pilz at 15:33| 京都 ☁| Comment(2) | キノコ的逸品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月23日

「学問との出会い」

daigaku08.jpg
小さな冊子を出したこともあってか、いつから仏教の研究
(というか、浄土思想の研究)をはじめたのですか?
と意外がられて、大学のそこここで聞かれている。
そんな風にはぜんぜん見えないのだろう。

以前、大学の刊行物に、大学に来るきっかけになったことを
書いたので、ここに供しておこうと思う。もう10年以上も前の話で、
ぼくが聞思館(もんしかん)という建物にいたときに書いたもの。
(これ、こちらに掲載したことないよね‥‥)

これを書いたとき、恩師から、「抑制をきかすことの
積極的な意味を表現するのは難しいですね」と言われた。
それを聞いて、とてもうれしかったことを覚えている。
ぼくはまさしく、カントのそういう揺るぎない気高さに惹かれたのだし、
だからこそ、その後漸く、浄土思想の研究をはじめることができたのだ。

学問との出会い

高校三年の始めの頃、一度だけ進路指導室に行ったことがある。山積みにされた書類のなかから、私は仏教系大学の案内を探していた。仏教の思想に親しみをもっていたからである。すぐに数校の案内が見つかった。ほとんど代わり映えのしない内容であったが、毛色の変わった書きぶりのものが一つあった。「学問をする環境には恵まれている」。この世知辛いご時世に、「学問」などという言葉に誘われる学生がいるのだろうか? そう思いつつも、すでに私の心には、木々に囲まれてゆったりと書物を読む自分の姿が浮かんでいた。結局、この一文に誘われて私は大学の門をくぐったのである。

大学では哲学科に学ぶことになった。少々のめり込みすぎのきらいのあった仏教には少し距離を置こうとした。たまに距離を置いても棄てるわけではあるまい。二年生の基礎講読(現在の演習Uに相当する)で読んだデカルトの『方法序説』はまさに、慣れ親しんだ対象と一旦距離を置くことを学問の方法的な基礎とするものであった。彼の有名な「方法的懐疑」はその一環である。偏見にとらわれない疑いを介することによって、デカルトは純粋な自己の存在を証明し、さらには自己の存在から神と物体の存在を証明する。神と物体の存在証明はともかく、次々と偏見を削ぎ落として進むデカルトの強靱な思索力には敬服した。

三年生の演習ではカントの『純粋理性批判』を読むことになった。至成堂で初めて原書を見たときの落胆は忘れられない。浩瀚(こうかん)、しかもきわめて息の長い独特の文体。これを二年間で読むのかと思うとため息が出た。実際に二年間のゼミで読めたのはその序文だけであった。しかし、カントの哲学全体の基本的な立場を読み取ることはできた。批判とは限界づけの意味であり、理性の批判とは理性の能力を限界づけ、分を弁えることにほかならない。カントは理性の能力を洗いざらい批判し、自由、魂の不死、神の存在といった形而上学的な問題について、人間が正当に主張できる範囲を確定しようとしたのである。その結論はきわめて抑制のきいたものとなっている。彼は人間が完全に道徳的に自己の行動を律する(自由となる)ための条件として、魂の不死と神の存在を「要請」(証明ほど確実ではないが、あることが可能となる必要条件として前提)するのである。不完全な人間が自由になるには、あたかも死をも越えるかのような無限時の努力を必要とする。人間が云々できるのは、精々のところ、そのいつ果てるともしれない努力の監視者として存在するかのように想定される神にすぎない。デカルトには敬服させられたが、節度あるカントの態度には心動かされた。

その後、卒業論文を始めとする研究の手がかりとして私が選んだのはカントであった。デカルトでなくカントにしたのは、前者が神の存在を人間的能力によって証明したのに対し、後者が人間的能力の限界ゆえに要請にとどめたという、わずかな違いからであった。このわずかな違いは同時に決定的な違いでもある。カントに続くフィヒテやシェリングはこの違いを重視せず、カントと袂を分かつことになった。人間的能力に対する見解の違いはやがて自我論の違いに行き着く。フィヒテやシェリングの哲学は人間イコール絶対的主観の哲学であり、自己と絶対者とのあいだに質的差異を認めない哲学であった。フィヒテやシェリングの立場は私にはとれない。カントにとどまるのが小器の分相応であろう。こうして、私の研究テーマはカントの自我論の周辺をさまようことになった。

カントの自我論の周辺を研究テーマとしてすでに十年以上の歳月が経過した。一貫していると言えば聞こえはよいが、そのじつ一本調子で進歩がないのである。一旦距離を置こうとした仏教に戻るにも、カントに深入りしすぎた。しかし夜、静まり返った聞思館の一室で本を読みながら、私は今でもよく進路指導室でのことを少々甘ったるい気分で懐かしく思い出す。あのとき思い浮かべた光景、もしあれが本当に学問であるなら、私はかつて自分が憧れた道を歩んでいるのであろう。
posted by pilz at 09:48| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月22日

バカ者

すっかり忘れていた。ぼくが冗談を言うことを知らないひとは、
ぼくが言う冗談をそのまま真に受けるしかないということを。

個人研究室開放をしていたのに、大学説明のときに
「(忙しいので)いないかもしれない」と言ったら、
みごと、高校生は誰も来なかったのであった。
(入学予定者は来たけどね。)

もう、バカバカ。
posted by pilz at 22:33| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月21日

じゃ。

今日はタイからバリへ行きましたのじゃが、明日は日本にもどってオープンキャンパスなのですじゃ(意味不明)。準備できていないのですじゃ(がびーん)。横で、YさんとNがこの記事内容を予想して、「じゃ、じゃ」と言っておりまする。収穫はキクラゲでありました。
posted by pilz at 21:33| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月20日

22日の土曜日は、オープンキャンパスなのだ。

oc20140322_hi.png
二次元氏、あかんか、この写真使ったら、あかんか? 使ってしまったのである。
(写真をクリックすると、オープンキャンパス詳細のページに飛びます。)

さて、というわけで「先生をめざす方のためのオープンキャンパス」であります。
先生をめざすひとのためのさまざまなプログラムが目白押しでございます。
詳細は略しますが(略するな)。

ともかく申し上げたいことは、入学センター長が研究室を開放しますので、
「哲学に興味のある人も歓迎します」ということでございます。

國中先生がエッセイの書き方講座を開くので、作家をめざす方もよろしいでしょう。
では、22日にお会いしましょう。
posted by pilz at 17:17| 京都 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月19日

やさしい人

例えば、とある芸能人が禁止薬物を使用して逮捕されたとする。
よくある話しだ。で、ぼくがいつもわからないのは、ファンのなかに必ず、
そういった罪を決して認めようとしない人がいることだ。
連行される芸能人を追いかけて、警官に罵声を浴びせかけたりしている。
罪を犯していない人を連行するのは不当だ、ということなのだろう。

それが “熱狂” ということだ、と言われればぐうの音も出ないが、
ぼくはそういう “熱狂人” の胸のうちが知りたいのだ。
「信じたくない」を「事実ではない」に直結する力強さ、
決定的な証拠を前にしてもそれがないかのように思える
“有を無であると言える力強さ”、 はいったいどこから出てくるのか、
不思議でしかたない。それは、熱狂人のなかに、なにか別の
信用することのできないものが厳然としてあることの反動なのだろうか。

こういうことを考えるたびに思い出す言葉がある。
「信頼はするが過信はしない」。某刑務所の看守が、その気になれば
いつでも逃走できそうな農作業を受刑者にさせている際に、
質問者に問われて答えた言葉だ。そうなのだと思う。
誰でも人を信頼したいと望んでいる。
はじめから誰も信頼していない、なんて人はいないのだ。

だから、芸能人を信頼したいのもわかる。事実、演劇のなかで演じたり、
歌ったりする能力という意味では、まちがいなくその人は人並み外れて
信頼に値する人なのだ。とても心根のやさしい人なのかもしれない。
ただ、違う意味での演劇の舞台では人並みに演じることができなかった、
というだけなのだ。一分の隙も無く、誰かを全面的に肯定するようなことは
むずかしい。それを無理にしようとすると、熱狂者になるか、
遅かれ早かれ人間嫌いにならざるをえないと思う。

人を信用していない人と付き合うことほどの時間の浪費はない、
ということは一般に言えるにしても、上のような意味では、
わずかな疑いの余地をもって人と接するぐらいの人の方が、
じつはやさしい人だと言えるのかもしれない。
posted by pilz at 23:31| 京都 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月18日

そこに居ないひと

今日は卒業式。卒業式が終わってからは祝賀会。華やかに着飾ったひとたちの姿をめでるほうがよいに決まっているのに、そこに居ない、来なかったひとのことばかり、来なかった理由ばかり考えていた。われながら、こういう思考パターンはよろしくないと思うが、同時に、直そうたって絶対になんともならないことも知っている。なぜなら、「よろしくありたい」などとは微塵も望んでいないからだ。
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2014年03月17日

先日卒業生を送ったかと思ったら、もう、
明日は卒業式なのである。いろいろあって感慨深い‥‥
というのは、おのが役割を十全に果たしたひとが使う言葉で、
2年生のときには他のゼミに預け、3、4年のときには
ほとんどそばにいなかったぼくには、とうてい、
使えそうもない言葉なのだ。

哲学科で選出している卒論優秀賞の賞状を印刷した。
毎年のぼくの仕事。この仕事がなければ、
もっと卒業式に参加しにくくなっただろう。
ともかくも、卒業の春をことほぐ。
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2014年03月16日

『英国王のスピーチ』

またもやNHKのBSプレミアムシネマでの放送。
何曜日か忘れたので、自分で調べてください。

この映画はFさんがレビューを書いているのを読んで、
ならば、と観て、好きになった作品。吃音に悩まされた
英国王ジョージ6世の実話がもとになっている。

この映画を観て動かされないひとがいるのだろうか、
などと、また自分が世界の正当派であるかのような言い方をする。
ただ、字幕で観るのは少しむずかしいかもしれない。

流ちょうでないよりも流ちょうに話す方が聞きやすいし、
それに越したことはないわけだけど、そんなこととは無関係に、
相手が大切なことを話していると思えば聴衆は耳を傾けるし、
聞くに値する生き方をしているひとの話であれば、
やはり耳を澄まし、耳を傾けざるをえないものなのだ。

もし、この聴衆が、自分の声を聞いている自分自身だとしたら、
耳を傾けざるをえないことを自分が話している、
自分は耳を傾けてもらってもよい自分であると思えたとき、
いったい、どんなことが起こるのだろうか。
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2014年03月15日

ストラップ

朝の電車。ぼくは座っている。駅から乗り込んできたリュックにトガリアミガサタケのストラップがついているのを見つける。女性らしい。まさしくトガリアミガサタケが出はじめるこの時期にそれを身にまとい歩くなんて、なんてステキな女性(ひと)なんだと、無駄にややこしい読み方の漢字を使って表現しようとするほどに動かされる。電車が揺れて、アミガサタケも揺れている。ぼくは、その女性の顔を見てみたくなった。(なぁニャン吉よ、これはよい話しなのか、どうなのか。)
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2014年03月14日

本性

酔っ払ったときに本性がでるのか、それとも、酔いというのは
本来の自分を覆い隠してしまうものなのか、どちらの考え方もあるだろう。

ぼくは前者だと思っているのだけど、同じことは、すごく忙しいときにも
いえるのではないか。忙しいときにこそ、そのひとの本性が出るように思うのだ。
そういう意味では、忙しいとは、よくいわれるように「心を亡くす」のではなく、
「ふだん隠されていた心が現れる」ということになる。なかには
わざと忙しくして自分のやっかいな本性が顕現しないようにしている
ひともいるようだが、そういうひとのことは考えないでおく。

とすれば、忙しいときこそ、たくさんの仕事を抱えたひとは「みられている」
と思う必要がある。忙しいときこそ、ひとへの応対、身のこなし、指先の動き、
会話の語尾、言葉の強弱といったものを測られてしまう。

「つい忙しくて、ゴメン」という弁明は成り立たず、
周囲は「なるほど、そういうひとなのか、よくわかった」とみるわけだ。
ぼくは本性をひた隠しにしておきたいので、忙しくなることを拒絶する。
posted by pilz at 22:26| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月13日

エッセイコンテスト

ちょっと前のことですが、エッセイコンテストの審査をしました。
審査委員長は国文学の國中先生で、ほかに鷲田先生やら、
小説家の津村記久子さんとかがいたので、ぼくはおおかた、
高校生の文章を読んできゃっきゃっ喜んでいただけだったのでした。

審査員がなにをおもしろがるのかというのはいろいろあって、
それぞれべつの角度からおもしろさをさがしていた。
とくに鷲田先生とぼくとはかなりべつのものを推した。
書くことの名士たちと自分を比べるのはおこがましいのだけど、
ぼくのは津村さんが推すものと少しちがったように思う。
そんなわけで、大谷文芸の意見も参考にした。

それぞれが他者の文章の長所を取り上げて、
「寄ってたかってほめあう」というのは、楽しい風景だった。
が、来年度のコンテストであんまり応募作品数が増えると、
ぼくはもうお手上げなので、「逃げる」のコマンドを選んで、
かさかさと逃走するのである。

コンテストの表彰式は3月22日(土)、オープンキャンパスの日。
(オープンキャンパスの告示を忘れていた。)
当日には國中先生による「エッセイの書き方講座」があるので、
興味のある高校生たちは、聞きに来ればよいでしょう。

4月5日(土)には、最優秀賞受賞者、大谷文芸部員、
津村さんを交えて、座談会「書くことはおもしろい。」を開催します。
せっかく「おもしろい」というテーマなのに、
座談会自体がおもしろくなかったらどうしようかと、
ぼんくらのコーディネーターは恐怖の日々を過ごしております。
ぼくをコーディネーターにするUさんが悪いのだ。

もろもろの詳しいことは、以下で。
http://koukou-essay.jpn.org/essay/
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2014年03月12日

今日も‥‥

わずかではありますが、飲みましたな。「先生も余裕がなかったし、私たちも余裕がなかった」。別の時を今で埋め合わせようなんてこと、できはしないのだ。
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2014年03月11日

特に意味はない。

(1)哲学をするとお肌ツルツルになるらしい。
(2)哲学にはアンチエイジング効果があるらしい。
(3)哲学は半熟のとろとろらしい。
(4)哲学は国産小麦粉100パーセントでできているらしい。
(5)哲学はカロリーゼロらしい。
(6)哲学は微炭酸らしい。
(7)哲学はモンドセレクションで金賞をとったらしい。
(8)今年の哲学には、昨年の三倍(当社比)の食物繊維が含まれているらしい。
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2014年03月10日

尋源館キティ

kitty.jpg
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2014年03月09日

『スティング』

NHKのBSプレミアムシネマで、『スティング』が放送されるらしいので。
11日。有名な映画なので知っているひとは多いかもしれないけど、
まだの方がおられたら。字幕スーパー。

名優、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの共演。
どういう風におもしろいかは、あくまで秘密なのである。
なんでもかんでも用意周到でないと、検索をかけたうえでないと
前に進まないというのは、世界のうげげ感と、
わくわく感を削ぎ落としてしまうのだ、ニャン吉よ。
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2014年03月08日

ume.jpg
障子を開けて庭を見たら、梅が盛りであった。
それは何年か前に、早春に咲くからと植えたもの。
植えたものがようやく時を得て咲いているのに気づかないとは。

もしも世界を自分の意のままに造ったものがあるとするなら、
それは、決して花が咲くことを忘れはしないのだろうか。
「今日ありて明日、爐(ろ)に投げ入れらるる野の草をも、
神はかく裝ひ給へば、まして汝らをや、信仰うすき者よ」
(「マタイによる福音書」6.30)

創造者であることと、それを覚えていることとは別だ、
ということにはならないのだろうか。
信仰薄きものはつぶやく。
posted by pilz at 22:10| 京都 ☁| Comment(0) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月07日

不審者

このごろではほとんど使われているのを見ない駅の公衆電話。
朝、ランドセルを背負った小学校低学年ぐらいの女の子が
しゃくりあげながら、とぎれとぎれになる声で、
懸命に電話をかけている。「あのね、○○を落としてしまったの」。
大切なものを落として、学校に行けなくて困っているらしい。

昔、街中で迷子になって、どうしたらいいかわらなくて、
世界の大方の区切りがなくなって、どうしようもない不安に
落ちたときのことを思い出した。そのときは、見知らぬ男性が
手を引いて、祖母のもとにぼくを連れて行ってくれたのであった。
その男性の顔は忘れたが、手の感触はいまも覚えている。

ぼくも少女に、よほど声をかけようかと思ったが、やめる。
そこそこの年齢の男性であるぼくが見知らぬ少女に声をかけることは、
彼女にとっては不審者が近づいてくることになりかねないからだ。
不審者とぼくに、外見上のどれほどの違いがあるというのか。
いらぬ恐怖を与えるぐらいなら、はじめからやらぬがよい。
こういう思考をする自分を、いまいましく思う。
posted by pilz at 23:15| 京都 ☔| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月06日

無題

kyoto02.jpg
今日の京都はいっとき吹雪いていた。ようやく暖かくなりはじめたか、
と気を抜いたときに寒波が来ると、とたんにみんなが風邪をひく。
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2014年03月05日

のけぞって責めるな。

自分も属するはずの大きな全体になにか不都合が生じたときに、
それが自分とは無関係な一部のひとの全責任によるものだと臆面もなく
言える人たちが、もう少し丁寧に言うと、そういうことを言ってしまう
ときの自分が、ぼくは好きではない。

自分がそこに含まれる全体であるなら、あるときは肯定することによって、
あるときは反対することによって、あるときは絶望のなかで、
あるときは気づかないままに全体のありようを認め、そこから意識的にせよ
無意識的にせよ恩恵をこうむって、ときには甘い汁を吸っておいて、
事が起きたとたんに、さぁすべての責任はお前にある私にはない、
という言い方はぼくの趣味ではない。

よしんば不承不承であったとしても、そのような全体を育ててきたのは
自分でもある、という反省のかけらがどこにもない批判であれば、
また同じ誤りを繰り返してしまう。

自分が属する全体を一片の恥じらいもなく責める人を、あるいは、
もはや責めることさえもせずに他人事のように眺めて嘲笑する人たちを、
ぼくは、下等な生き物を見るような目で見ているような気がする。
それが、鏡をのぞき込んでいるときでなければいいのだけど。
posted by pilz at 22:49| 京都 ☀| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月04日

sugaura02.jpg
汀(みぎわ)は「みずぎわ」に語源するのだろうな。
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2014年03月03日

弁当雑感

今日で、今年度の入試は終了。あぁ眠たい。
弁当を食べながら思っていたのは、今年度も、
弁当には一度も鶏肉が入っていなかった、ということ。

なかには鶏肉を食べたいひとがいるだろうに、おそらく、
入試の弁当に鶏肉が入らないのはG長が食べられない
からだと思うのだが、ぼくも苦手だから、
ぼくの責任もあるような、ないような。

昔、中学校だったかのときに、あまり品行のよろしくない
女子のグループがいて、その親玉(もっと別の表現はないのか)
のような子の好みにしたがってグルーブが動いていた。

もちろん、そのグループと同じようには考えられないけど、
ある一定の立場にある人というのは、自分の趣味嗜好にさえも
それなりに配慮しないといけないとしたら、
なんと大変なんだろうなと思った、ひな祭りの夜。
posted by pilz at 22:40| 京都 ☀| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月02日

ジョサイア・コンドル『河鍋暁斎』

テレビをつけたら、珍しく河鍋暁斎とジョサイア・コンドルの
番組があって、これだったらY先生の専門だなぁと思っていたら、
Y先生が出てこられた。思わず、「わっ先生」と声に出る。
きっと先生の達意の名訳があったから、こんな番組ができたのだろう。
翻訳の大切さを、つくづく思う(が、現在、品切れ)。

元来ぼくは、不必要に「先生」を連発するようなひとに
警戒心をもつタイプで、ひとを「先生」と呼ぶのが好きではない。
そこには、おうおうにして、権威主義やら狡猾な打算といった
どす黒いものがとぐろを巻いているからだ。

なので、かたくなにそう呼ぶことを避けようとするが、
すさまじい実力と、外に現れた謙虚な物腰・行動とのギャップが、
ある一定の数値を超えたとき、自然と、なにをはばかることもなく、
「先生」と呼んでしまう。
posted by pilz at 22:45| 京都 ☁| Comment(0) | 好きな本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする