2014年06月30日

「インドおどり体験」

今年で90周年を迎えた京都府立植物園では、記念イベントとして
7/19〜21日の午前7:45から「夏休み!まゆまろラジオ体操」(雨天中止)
を実施するそうです。7/20は本学のショバ先生とゼミ生たちによる
「インドおどり体験」も開催されます。

イベントにはどなたでも参加できますが、
入園料(小・中学生は無料)が必要だということです。

以下のチラシのイラストは教育・心理学科の学生が書いたもの。
小学校の先生が生徒に書いてくれそうな、かわいらしい絵です。
ぼくはまったく絵心がないのだけど、こういう絵心があるひとと、
絵心がないぼくを分けるものはなんなんだろうね。

まゆまろチラシ
posted by pilz at 20:59| 京都 ☁| Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月29日

今日も

暑くて暑くて。こちらの水道水は京都よりずっと冷たくて、手を浸すと心地よい。ぼくは体温、というより正確には手のひらの温度が高くて、いつも指先で冷たいものを探している。この話しをしたら、「なら、自分の胸に手を当てたらいい」といわれたことがある。なるほどと思って当ててみたが、実際にはどちらも高くて、当ててもなにも得るものがなかった。
posted by pilz at 23:19| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月28日

今日は

長袖で歩いていたのですが、暑くて暑くて‥‥けっこう焼けました。今日もまだ飲んではおりませんが、これから卒業生と会って飲むのです。別の卒業生から今日のぼくのスケジュールがすでに伝えられていたことには驚きました。各地の卒業生と会って、ぐだっと飲むのは喜ばしきことである、とキノコ日記には書いておく。
posted by pilz at 20:15| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月27日

今日は

飲んではおりません。半袖で夜の街を歩いていたら、くしゃみがでましたな。昔、アルプスの少女ハイジを観ていたら、ハイジとクララが太陽を見上げたときに2人ともくしゃみをしておりました。太陽をみたらくしゃみがでる人がいるということを知ったのは、ずっと後のことでした。
posted by pilz at 23:13| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月26日

センター長ボックス

明日から学会でございます。なになに、どこへ行くかって?
北の方でございます。北と言っても、北山のように近くはありませんし、
かといって、北極ほど遠くはありません(ふざけるな)。

部署からは許可を得ておりますので、スキップで行くのであります。
Wさんの講演を聴けないことだけが心残りではありますが‥‥

ともかく、なにか緊急の必要があれば、「魁・センター長ボックス」
(意味不明)に入っているアイテムをお使いください。
が、印鑑のうちのひとつはキノコ印鑑ですから、
くれぐれも、お間違いなきよう。
posted by pilz at 23:24| 京都 ☔| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月25日

問いにくい問い

「なぜやらんかった(しなかった)かを問うことはできんやろ」と言われて、
はっとなった。もちろん、こういうことは文脈があっての話なのだけど、
こういう問いをタイミングもわきまえずに、辺り構わず打ち続けて、
これまで多くの人を傷つけてきたような気がする。
posted by pilz at 23:18| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月24日

ブレーキをかけないおばちゃん

街を歩いていたら、おばちゃん自転車に轢かれそうになって、
あやうく難を逃れる。「あーびっくりした」などど言っておる。
それは、こっちのセリフじゃ。

おばちゃんのなかには、サドルに腰掛けたままだと急ブレーキを
かけられない人がいる(こういうおばちゃんって関西人だけかな?)。
危険を察知したら、ブレーキのレバーを握るかわりに
サドルから降りるのだ。まずレバーを握れ、レバーを。

たぶん、この手のおばちゃんには、「自転車に乗ったまま
急ブレーキをかける→バランスを崩してこける→自分がケガをする」
という図式が強く意識されているのだろう。願わくば、
「バランスを崩してでも急ブレーキをかける→
ピルツ君にケガをさせないようにする」
という図式も欲しいところではある。
posted by pilz at 23:43| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月23日

哲学ってなんだろう?―凸凹本:哲学冊子発行

dekoboko01.jpg
哲学科の教員7名が書き下ろした哲学エッセイ集です。全30ページ。
これは開いたかたちで、じっさいには、この半分の凸の面からか、
凹の面から読み進めることになります。

dekoboko02.jpg
(↑凹面を開いたところ)
エッセイの内訳は、「やわらかな頭に切り換えて、
学ぶコトの大切さ」と銘打った凸にはpilzのものが12作。
「日常のコトを哲学的視点でながめてみる」と銘打った凹には
ワッシー先生2作、CKPせんせ2作、Wさん2作、F君2作、ワッキー2作、
書くのがイヤだとごねにごねたパクチー1作です。

どの作品がよいか‥‥それは読者のみなさんが決めてください。
楽しく読み進みていくうちに、哲学とはどういう営みなのか、
自然にわかるでしょう。ワッシーとか、ワッキーとか、パクチー(!!)とか、
レアにもほどがある執筆陣による書き下ろしエッセイ集ですから、
いずれマニア垂涎の冊子になるでしょう(パクチーせんせなんて、
もう二度と書かないと思う)。私は個人的に身を切りました。

幸いにして入手なさった方は、大切に保管しておいてください。
(その辺に置いておかれたりしたら、私が困ります。)
まだ入手できていない高校生諸君は、オープンキャンパスに来れば、
きっと入手できるでしょう。

それぞれのエッセイに付されたイラスト担当はT画伯
(現在、大谷大学哲学カフェのイラストも担当の模様)、
冊子の構想および編集は2次元氏になるものです。
2人に、哲学科より感謝を。
posted by pilz at 22:44| 京都 ☁| Comment(2) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月22日

6月15日オープンキャンパス・大谷大学新聞社レポート

oc20140615_report_hi.png

(↑ をクリックしてください。)

先日のオープンキャンパスの様子を新聞社がレポートしていたので。
昨年、あんなに不安そうな顔をしてキャンパスにいた高校生たちが、
もうこうやって後輩たちのレポートをしているのですね。

キャンパスのそこここに立つ新聞社員たちを見て、やっぱりGは
人を見る目と引っ張り上げる力がある、と感心させられたOCでした。
今年も、新聞社のレポートを楽しみにしています。
posted by pilz at 22:14| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月21日

ときどき海に行きたくなる

ぼくが育ったところは海をへだてた山間の農村で、今もそういうところに
住んでいる。そのせいか、ときどき無性に海に行きたくなることがある。
ともかく行きたくなるのだから仕方ない。臨海工業地帯なんてところはイヤ
なので、砂浜のある、それなりに見られる海というと、ぼくの家から
一番近いのは兵庫県の須磨海岸になる。

3時間もかかるけど、年に何回かは行って、砂浜で寝そべってぼ〜っとしたり、
明石海峡を行き交う貨物船なんかを見ている(もちろん、海水浴シーズンは避ける)。
意味もなく貝殻交じりの砂を手にとって、砂時計の砂のようにさらさらと落とす。
流れ着いた野球ボールを海に向って大遠投し、どういうわけかこれまた砂浜に
流れ着いたイチジク浣腸を海に向けて蹴っ飛ばす。あ〜いいお話になってきたのに
‥‥すっかり水の泡。

だいたいそんなこんなを半日ほど続ければ大満足となるが、夜まで待って夜光虫を
見るときもある。運がよければ会える。じっとしていても波打ち際が青白く発光して
それはそれはきれいなものだが、大量に砂を投げつけて、無理やり発光させてやる。
青白い光がゆらゆらただよっている。夜光虫にとっては迷惑な話だが、
たまにしか来ないのだ、許せ。

打ち返す波。ゆっくりと行き交う船。指をすり抜け落ちる砂。波間にただよう
青白い光――水と単調なリズム、そんなものを求めているのだろうか。
posted by pilz at 23:53| 京都 ☔| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月20日

隣人先生を超えて

気がつけば、デスク周りがゴミ捨て場のようになっている。あまりの散らかりように整理作業をはじめるが、いっこうにはかどらず、断念する。ぼくはひそかに、どんなにデスク周りがひどいことになっても、隣人先生のデスク周りほどではないと思っていたが、NC長となって2年と2ヶ月、ついに隣人先生を凌駕したのであった(記事にするほどのことか)。
posted by pilz at 23:33| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月19日

無題

himawa.jpg
特に意味はない。
posted by pilz at 23:37| 京都 ☀| Comment(0) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月18日

「わかりません」

あまり好きな言葉ではなく、できるだけ避けるようにしているのですが、
老若男女、いろんな方に「わかりますか?」と問いかけます。
答えは「わかります」か「わかりません」かのどちらかですね。
でも、「わかりません」には、たくさんのニュアンスがあります。
例えば。

1.「ソクラテスは紀元前何年に死んだのですか?」といった、
質問の意味はわかるのだけど答えることができない、という「ノーマル型」。
ごく普通のパターンですね。質問の内容によっては、答えられない人が
照れくさそうにしたり、あっけらかんとしていることも多い。

2.「ソクラテスが生きていたことにはどういう意味があったのですか?」
といった、「わかりますか?」という質問の「意味」がわからない
「哲学型(?)」。考える人ですね(質問者が拙い場合もある)。
答えられない人が困惑した顔をしているのが特徴です。こういう人には、
美しい答えはいいから、どういう経路で答えが出なくて困っているのか、
を説明してもらいます。

3.高校生に多いのは、「抵抗型」。質問の意味がわかっていても
答える気がないか、そもそも質問を聞こうとする気のないパターンで、
答えられない(答えない)人の視線は時に宙を舞います。この場合、
「わかりません」は、「うざい!」の尊敬語であることも多い。
解決すべき問題は、教科書以外のところにあるんでしょうね。
posted by pilz at 22:43| 京都 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月17日

無我夢中

下の方の記事にあるハウザー先生の写真がかっこいいので、
ぼくはかっこいいとかかわいいを追いかけるタイプでないはずなのに、
ちょっとそのかっこをまねしてみようかと、思ってしまう。

ポケットに手をつっこんだまま人と話すというのはぼくの行動では
ないが、アメリカン設定だからそれはいいと、こんな感じかな、
ネクタイの感じはこんなのかなとやっていたのだが、
鏡に映った自分の姿がちらりと見えて、胸が悪くなってやめた。

でも考えてみたら、自分の姿ってどんなだろうと思う。
自分にはわからない。恥ずかしがりの自分にはあまりないことだが、
ほんのまれな、短い時間、無我夢中で話しているときがある。
純粋に自分がすべきだと思うことをやっているときだから、
そんな瞬間には、自分の姿を出しているのかもしれない。

とすると、無我の瞬間、夢を見てる瞬間にこそ自分が現れている、
という不思議な話になる。
posted by pilz at 23:06| 京都 ☁| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月16日

ホームポジション

飲み屋から出てきた男性がひとり、前を歩いている。
右に左に大きく振れながら歩いていくので、これは千鳥足のイデア
(そのものずばり)だなと思ったら、おかしくてしかたなかった。

あんまり大きく振れるものだから、車にでもひかれたら困るかな、
手を貸した方がいいのかな、とちょっと心配しながら追尾していたのだが、
どうもその必要はないらしい。

大きく振れながら歩く男性の左右の振れ具合は一定していて、
右に大きく振れたかと思うと、次はちょうど同じだけ左に振れていて、
つねに “ホームポジション” に戻っている。

千鳥は千鳥なりにすでに見事に一定の調和を保っているのだ。
そしてそうやってちゃんと家にもたどり着くのだろう。そんな男性に、
あぁそっちじゃないですよ、右には振れないようにしましょうね、とか、
次の足はこっちに出して、そうしないと家に帰れないですよ‥‥なんてことを
言いはじめたら、とたんにその男性は歩けなくなってしまうだろう。
posted by pilz at 21:00| 京都 🌁| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月15日

今日のことはもう忘れて、明日。

jingen03.jpg
posted by pilz at 23:05| 京都 | Comment(0) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月14日

敗北感

メガネの処方箋をつくろうと眼科へ行く。Cみたいなのを見るが、
ともかく見えない。「わかりません」を連発して、げんなりする。
べつに見えなくてもいいのに、「わかりません」と言うのがイヤで、
ときどき、目を細めて見ようとさえしてしまう。
そんなことをしたら、処方箋をつくる意味がないじゃないか。

「わかりません」を繰り返していくうちに、この言葉には、
なにかしら、根本的な部分で自分をそこなうものが含まれているような
気がしてきた。なんだろうな、それは、AをBと言いまちがえたときの
感じではない。うまく説明することができないけど。

思えば、授業で学生に問いかけるときは、できるだけ「わかりません」
と言わせることがないように、答えに向けて背中をゆっくり押すつもりで、
発言をうながすようにしているつもりだけど、じっさいには、
しばしば「わかりません」を言わせてしまっている。

授業中に居眠りさせてしまうのも、「わかりません」と言わせてしまうのも、
どちらも、教師としては、言い訳のできない敗北だと思う。
posted by pilz at 22:37| 京都 ☁| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月13日

マンゴーは食べられない。

家に帰ったら、テーブルに立派なマンゴーが置いてある。
ぼくはマンゴーがとっても好きなのだけど、下手に食べると、
クチビルがタラコ状に腫れてしまって、ムダに色っぽくなって、
マリリン(モンロー)のようになってしまう(わかる?)。
(*マンゴーはウルシ科だから人によってはかぶれる。)

明日は高校の先生たちの前で話さないといけない。
校長先生たちの前で色っぽくなっても意味はないと思うので、
食べたいけど、今日は食べないでおくのである。

といっても、明日であれば食べられるかというと、そういう
わけにもいかない。明後日は、高校生たちの前で話さないといけない。
高校生たちの前で色っぽくなってもやはり意味はないと思うので、
食べたいだろうけど、きっと明日も食べられないのである。

要するに、マンゴーはいつまで経っても食べられないのである。
posted by pilz at 23:23| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月12日

本日は

ゼミ女子会の日でありまして、わたしはさしせまった書類を仕上げようともせず、大学を後にしたのでありました。なぜ女子会にわたしがいたかと申しますと、要は諭吉輸送係りですな。メンバーはさかんに女子力の話しをしておりましたが、もちろんわたしにわかるわけもなく、申し訳ないことです。
posted by pilz at 22:55| 京都 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月11日

オープンキャンパスの模擬授業の紹介

open01.jpg
ワッシ−先生の模擬授業を問い合わせてくれた高校生たち。
ココをみてください。詳しく書いてあります。

わが哲学科の紅一点。哲学科史上はじめての女性スタッフ
であるわっきーの模擬授業登板はもう少しあと、だった気がする。

ちなみに、今年はぼくは登場しないのだ。
あぁしないとも。まいったか。
posted by pilz at 18:53| 京都 ☁| Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

手軽さと利便性を追求した‥‥

院生と紅茶を飲みながら話していたら、パワースポットの話になる。
「いったいパワースポットってなんなんやろ?」と聞いたら、
儀式・儀礼にまでは参加したくない人のための、
「忙しい現代人のための宗教」と言っておった。

なにかに属したり、奉仕したり、儀式の手順を覚えたり‥‥
そういった複雑で、責任を負うようなものに参加するほどでもないが、
それなりに大きなもの(の御利益だろうな)に関心がある人が行く、
手軽さと利便性を追求した宗教のかたち、ということなのだろう。
24時間営業の「コンビニ宗教」とも言っておった。なるほど。
「大きなもの」って説明が難しいけどね。
posted by pilz at 18:32| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月10日

「ぼく」と「あたし」

自分を表現する代名詞はいろいろがあるが、ブログでは「ぼく」を使う。
「私」でなく「ぼく」を使うのは、なるべく親しみやすい表現を使いたいからだ。
ブログを離れて学生と話すときでも「ぼく」を使うことが多いのだけど、
これはぼくの先生が学生と同じ目の高さで話してくださったときに
よく使っておられたのを聞いて、いいなあと思ったことがあったからだ。
「ぼくもよくわからんのだけどね‥‥」。そう言いつつ、先生はわかって
いなかったわけではなかったのだけど、そういう謙虚な、自分も同じく
学ぶ者であるといったニュアンスのこもった言い方にぼくは惹かれた。

「僕」ではなく「ぼく」を使うのは、できるだけ漢字を使いたくないからだ。
個人的には漢字の「僕」は「しもべ」という意味が見え隠れして重い感じがするし、
なるべくひらがなを使っていくという最近の文章の考え方にも合うと思っている。
(ただし、つい最近のことについて言えば、漢字を使って文字数を少なく
しようとするテレビの字幕が普及してきたことから、逆の傾向も出てきている。)

授業で女性たちに、どうして「私」でなくて「あたし」を使うの?と尋ねてみた。
前々から不思議だったからだ。てっきり、「私」という型どおりの手垢にまみれた
言葉では表現し切れない(と当人が思っている)自分らしさを強調したい人、
それを受け容れて欲しい人が使うのかと思ったら、「その方が発音しやすいから」
と答えた人がいた。なんでも聞いてみるものだ。
posted by pilz at 23:44| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月09日

6月15日はオープンキャンパスなのだ。

このところメンテナンスをしているせいかシーサーブログが不調で、携帯からでありまする。15日の日曜日は今年度最初のオープンキャンパスで、各学科からの模擬授業がずらりと揃います。哲学科からは鷲田先生が先発登板。鷲田先生の模擬授業は今年度、この一回切りだからお聞き逃しなく。
posted by pilz at 23:32| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月08日

凧糸

今日は久しぶりにものすごい力作を書こうと思っていたら、
気づいたら、この時間なのである。
あと20分しかないど、ニャン吉よ。

あまりこういう体験はしたくないものだけど、
学生と話していると、はっきり言葉に出されたわけでも、
身体が大きく動いたわけでもないのに、「いま、見切られたな」
と思える瞬間が、はっきり伝わってくることがある。

自分としては致命的なミスを犯したとも思えない瞬間なのだけど、
相手側からすれば、ぼくが気づかぬうちにじりじりとよじれ続けた
凧糸(たこいと)がついにぷっつり切れたといった感じなのだろう。
そうして飛んで行った凧が戻ってきたことは、一度もない。
posted by pilz at 23:49| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月07日

出欠をとるということ

学生たちと話していると友人たちの話がしばしば出てくるわけだけど、
そうした場合、たいてい彼らの友人たちはファーストネームかニックネームで
呼ばれる。以前は、教員(ぼく)と話す場合には、「○○君」や「○○さん」
といったかたちでファミリーネームにして、いちおう、“よそ行きの言い方”
をしてくれたのだけど、このごろはとんとそういうことをしてくれなくなった。
自分の友人はその場にはいないニュートラルな第三者として話してくれる
場合が多かったのだが、このごろは自分の友人を自分の友人のままで話す
ことが多くなったのだ。ひとによっては自分の飼い犬やら飼い猫やら
飼いウサギまで愛称で呼ぶ。てっきり別のゼミの学生のことを話している
と思ったらハムスターの名前だったこともある。

こうしてぼくは、自分の学生だけでなく、その学生の親しい友人の
フルネームやニックネーム、ときには飼い犬の名前までも覚える。
最近ことに頭の回転が鈍ってきて、記憶力減退傾向の著しいじいには
やや荷の重いことなのだ。なんぼかわいくても、他人様(ひとさま)の
犬の名前まで覚えてられへん。百歩譲って犬猫や、ほ乳類までは
認めるにしても、両生類とかはさすがに勘弁して欲しい。げろげろ。

この理由がどうしてなのだろうとときどき考えてみたりするのだけど、
よくわからない。学生というのは総じてクラスメイトのファミリーネームを
覚えていないものだからなぁと思ったこともあるが、そんなこと、
いまにはじまったわけでもないのだ。でも最近、はたと気づいたことがある。
ぼくは自分のクラスの学生の出欠をとるとき、ほとんど点呼しない。
名前を呼ばないのだ。ぱっと顔ぶれを見て、黙って閻魔帳(死語か?)に
つけてしまう。そう言えば、ぼくが閻魔帳をつける際の一瞬の沈黙が怖い
と言った学生がいたっけ。出欠をとるというのは、ひょっとすると
教員のためだけのものではないのかもしれない。
posted by pilz at 23:31| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月06日

たゆたゆと揺らぐ

何年か前までは、夏といえば必ず1回はキャンプに行って、
バーベキューをしたものだ。バーベキューが終わって、
もう焼くものもないのに、薪をくべていつまでも炎を見ている
のが好きだった。1年ぶりに会って思い出話に花が咲いたメンバーも、
いつしか話題も尽きて、やがてみな黙りこくったまま炎を見つめ
続けるのだった。Aはいつも黙って薪をくべていた。
炎に照らし出された奴の横顔をいまでもよく覚えている
――居酒屋のテーブルに置かれた蝋燭の炎を見ていたら、
そんなことを思い出した。「蝋燭があったら、せんせ、
しゃべらへんようになるから、蝋燭、向こうに置こう」。すまぬ。

幼いころ、実家には “おくどはん” (かまど)があり、
炊飯器もあったのだが、そちらで作った方が美味しいということで
毎日祖母がご飯を炊いていた。火をつけるのは祖母の役割だったが、
ときには火のお守りをさせられた。薪をくべる。水分を含んだ薪は
しばらく炎に抵抗するが、やがて観念したように切り口から水分を
したたらせて、とつぜんぼっという音を出して燃え上がるのだった。
おくどはんの小さな焚き口から見える炎を見ているのが好きだった
――「そうや、せんせ、しゃべらへんから、席かわったら、ええねん」。
すまぬ。

たゆたゆと揺らぎ続ける蝋燭の炎はいくら見ていても飽きることがない。
決して揺らがない確固としたものを求め求めて疲れたとき、
人は炎に癒されるというのだろうか。Aはもういない。
posted by pilz at 23:39| 京都 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月05日

今日、心に残った言葉

「ぼくは全戦全勝なんや」(by ワッシー)
posted by pilz at 22:51| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人にやさしくするのも大変

朝の電車。大切な書類を読んでいる。杖をもったおばあさんが
乗り込んでくる。もちろん、迷わず立ち上がる。「ありがとうございます」。
ていねいなおばあさんだ。「どういたしまして」。

座ったおばあさんは、自分(おばあさん)の膝にぼくの手提げかばん
(大切な書類が入っている)を乗せるようにと、膝をポンポンたたいている。
丁重にお断わりするが、強引にカバンを取り上げられ、隣の人との隙間に
置かれてしまう。おばあさん、それは困ります。そういうことをすると、
鈍なぼくは十中八九、置き忘れてしまうのです。しかも、そこには
置き忘れるとしゃれにならないものが入っているのです。
カバンは隣の人に寄りかかっている。すでに、おばあさんは熟睡。
気が気でなく、それからは、カバンに全神経を集中。

いくつか後の駅。カバンに寄りかかられたかわいそうな人が降りる。
意外とメリハリのあるおばあさんも目を覚まし、空いた一人分のシートを
すかさずポンポンたたく。ともかくポンポンたたくのが好きな人らしい。
周囲は派手なポンポンを遠巻きで見守っている。誰も座ろうとしない。

ひょっとすると‥‥そっとおばあさんの顔を見る。やっぱり!満面の笑みで
こちらを見て、大きくうなずいている。「恩人以外の誰も座らせない!」
という巨大なオーラが出ている。どのみち、座らざるをえないのだ。
エイッと座る。満足したように、おばあさん、ふたたび眠りの世界へ。
おばあさんと並んでこちらも眠り込む。熟睡。

たぶん、次の次ぐらいの駅。メリハリのあるおばあさんにやっぱりポンポンと
膝(ぼくの)をたたかれて、飛び起きる。「本当にありがとうございました。
おかげで助かりました」。それだけを告げて、おばあさんは降りる。
人にやさしくするときは、それなりのアフターケアも覚悟しなければならない。
posted by pilz at 09:06| 京都 ☁| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月04日

確信犯

今日も大学説明会。わたくしはいつものように、
確信犯的に持ち時間をオーバーして、あとで説明するNさんやら、
Hさんをいたずらに急がせてしまって、へらへらしていたのであった。

きっと金曜日もオーバーするでしょう。ごめんね。
posted by pilz at 23:51| 京都 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月03日

中程度のエゴイスト

他人なしに自分がないことはもちろんですが、
自分の幸せを求めるためにひとは生まれてきているのだと思います。
自分の幸せを謳歌(おうか)するために、幸せを味わい噛みしめる
ために私たちは生まれてきたのではないでしょうか。

誰であろうと、たとえ大きな恩を受けた親であろうと、
その意向に添うために自分の幸せを切り詰め無くしてしまうこと
はありません。親の幸せとは、誰ともちがう、とうぜん自分たちとも
ちがう幸せを求めていく、これまで世の中に一度も存在したことのない、
たった一人の独立した人間を育てることができた、
ということに基づく(はずの)ものなのではないでしょうか。
親に自分の人生を捧げ尽くす必要などないのです。

私がこのようなことを書くのは、自分よりも親の人生を大切だと思う、
自分に独自の価値があるとは心底からは思えない “心やさしいひと”
の気持ちを変えようとしてでのことではありません。そんなこと、
できるわけありませんもの。ただ書きたいから書いているだけ。
(「中高生からの問いに」vol.8)
posted by pilz at 22:32| 京都 ☔| Comment(0) | 若いひとたちに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする