2015年03月18日

飛行機雲

hikouki.jpg
卒業式が終わり、研究室でひと息ついて窓の外を見てみたら、
もう構内はひっそりとしている。

昨夜は、ずっと以前に書いた文章を読み返していた。
1年生の虚(うつ)ろな瞳にショックを受けたことが書いてある。
その目を見たとき、この学生は4年では卒業できないと感じたのだった。
きっと6年にちがいない、いや中途退学かもしれない――理性ではなく、
感情のどこかの部分が差し引き計算の答えをはじき出していた。

それから4年。みごとに学生は卒業式の列にいた。ひとりの人間。
こんな複雑に入り組んだものの行く末を一目で推測するなど、
できるはずもなかった。自分の愚かさを改めて思い知らされたわけである。

もちろん4年前に今日のことがわからなかったのと同じように、
このさきのこともわからない。それでも、窓からのぞく青空には
飛行機雲がぐんぐん伸びていく。
(これは、以前に別のところで書いた記事の再録です。)

ichigo.jpg
kinrui01.jpg
d.jpg
box.jpg
f.jpg
bouzu.jpg
kiyo.jpg
kame.jpg
open.jpg
ouji.jpg
r.jpg
z.jpg
zemi.jpg
そして‥‥
posted by pilz at 23:00| 京都 ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月17日

利他的衝動

もうすぐ彼岸という時期になった。盆と彼岸には墓参りに行きたい
と思っているが、年々忙しくなってきてなかなか時間がとれない。
彼岸のつもりが、いつも1カ月も2カ月も遅れる。

幼いころ、祖母は毎月、祖父の命日が近づくと墓参りに行ったものだ。
墓へ続く道には急な坂道があって、花やらお供えものやらをどっさり積んだ
乳母車を祖母が押し切れなくると、ぼくが代わって押した。その坂道は
残っていて、いまでもそこを通る度に誇らしい気持ちになれる。

祖母は頼みごとをしない人だった。人に頼むぐらいなら、自分でなんとか
しようとする人だった。そして愛情に深い人だった。ある宗教家が
「利他的衝動」という言葉を使っていて感心したことがあるが、思えば、
祖母の行為は一種の衝動と言えるほどに強い動機から生じていた。この人の
すさまじい愛情がなければ、ぼくがここに存在することもなかっただろう。

人に頼みごとをしない祖母だったが、たったひとつ、くりかえしぼくに
頼んだことがある。「(自分が死んだ後も)おじいさんの墓参りに行っちゃって
(行ってあげてください)」ということだった。けっきょく、自分のことは
なにひとつ頼んでいないのである。
(祖母の記事が多くなりました。ご寛恕を。)
posted by pilz at 23:49| 京都 ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月16日

不思議いっぱい。

まもなく3年目の任期を終えることになります。
ひとに迷惑をかけるのもいやですし、もともと1年でやめようと思って
いた仕事なのですが、不思議なことに、3年も続けることになりました。
そしてもっと不思議なことに、4月以降も続けることになりました。

なにかひとつ伝えたいことはありますか?と聞かれたら、
これから前途洋々な若いひとたちには、こう伝えたいと思います。
それなりに生きていれば、不思議なことがいっぱい起きる、と。
ちょっと前までは想像だにしていなかったようなことが起きる、と。

ぼくといっしょに仕事をはじめた隣人先生は、残念ながら、
今月いっぱいで仕事を終えられるそうです。隣人先生には、
ぼくが院生のころからお世話になっていて、この仕事についてからも、
やっぱりお世話になったのでした。ありがとうございました。

これまで、たくさんのひとが通り過ぎてゆくのを見てきましたし、
そのそばを通り過ぎ追い越しもしてきました。4月になれば、
また新しいひとたちと出会えるのでしょう。あっそうだ、
4月になる前に3月21日はオープンキャンパスなのです。
posted by pilz at 23:42| 京都 ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月15日

返答

残りがわずかになってきましたので、中高生からの問いかけに
ここでひとつひとつ答えることはもうできないと思います。なので、
寄せられるメールのうちで、けっこう多いパターンのものを貼っておきます。
あなたが寄せてくれたメールについて、私の考え方を書きたいと思います。

>私は、自分の存在価値とは何か?
なぜ苦しくても生きていかなければいけないのか?を勉強したいのです。

「なぜ苦しくても生きていかなければいけないのか?」と問われれば、
今は、「苦しくてもぜったい死んではいけない、とまでは言えない。
しかし、できれは生きていて欲しい」と答えるでしょう。

「では、なぜ生きていて欲しいと願うのか?」と問われれば、
「あなたの姿形や考え方は私に似ているから」と答えるでしょう。

「では、なぜ私に似ていれば生きていて欲しいのか?」と問われれば、
「私が生きていたいから」と答えるでしょう。

「なぜあなたは生きていたいのか?」と問われれば、
「私は私が大切であることを知っているから」と答えるでしょう。

「しかし、自分はあなた(pilz)のように生きていたいとは思わない。
私は自分が大切だとは思わないし、生きていかねばならない理由がわからない」
と言われれば、最初の答えに戻るか、沈黙せざるをえないでしょう。

と、私の答えは現時点でも答えになっていないのですが、
ここで、ふたつのことが言えると思います。

まずひとつは、美しい答えを出すことが哲学ではなくて、
自前の問いについて考え続けることが哲学であるということ。
そういう意味では、すでにあなたは立派に哲学をしています。

もうひとつは、自分や他人を大切に思うことは、
人との関係のなかからしか生まれてこない、ということです。
けっきょく自画自賛のようになってしまって心苦しいのですが、
自分の言葉に耳を傾けてくれる人がいるというのは、
そうした関係のひとつなのだろうとぼくは思っているのです。
(「中高生からの問いに」vol.10)
posted by pilz at 22:14| 京都 ☔| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月14日

手塚治虫「雨ふり小僧」

いつからか、個研に一本の傘が置かれたままになっている。
心当たりのある人たちに問い合わせてみても返事はない。青い女性物で、
全体に色が褪せ、先の部分が欠けている。愛着をもって使われていたのだろう、
捨てることもできない。あれから何度か雨の日を過ごし、思い出してもらえる
チャンスを逸した傘は、もう忘れられてしまったのかもしれないが、じっと
持ち主を待っている。「雨ふり小僧」(手塚治虫)のセリフを思い出した。
(『手塚治虫名作集』第2巻、集英社文庫所収)

よく 物置なんかに ふるいカサが すてられてあるどに ああいうのから
おいらたち 生まれるどに

山奥の分校に通うモウ太は、本校の子どもたちから田舎者とバカにされる日々。
そんなある日、モウ太は橋の下で古傘の妖怪、雨ふり小僧と出会う。
モウ太の長靴を欲しがる小僧に、モウ太は三つの願いを叶えてくれたら
長靴をやると約束する。三つ目の願いは分校の火事を消して欲しいというもの。
火に近づいたら(自分が)消えてしまうと尻込む雨ふり小僧に、モウ太は言う。
「火を消してくれたらきっと長靴をやる。あの橋の下で待ってるから」。
その言葉を信じて小僧は必死で火を消す。だがその直後、モウ太は都会へ引越す
ことになった。長靴をわたすこともないままに。約束はすっかり忘れ去られ、
40年の歳月が流れて、モウ太は幸せな父親になった。ある日、娘にせがまれ
長靴を買おうとしたとき、モウ太は雨ふり小僧との約束を思い出す‥‥

雨はまた降る。傘といっしょに、個研の住人も、
もう少し持ち主を待つことにしよう。
posted by pilz at 22:20| 京都 ☀| 好きな本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月13日

危ない危ない

楽しく飲みすぎて、あやうくブログ更新時間切れでした。G君とK君(誰かな)とで深飲みしておりました。K君、次に会うときはお土産はいらないから、その身ひとつで来てください。I庭うどん、ありがとう。
posted by pilz at 23:17| 京都 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月12日

メロンパン史上最高

メロンパンをもらった。uさん(ちなみに、K課のueさんではない、念のため)からのお土産のおすそ分け。Sさんが私の「メロンパン史上最高」と言っておりましたが、美味でありました。ありがとうございます。このこととは関係ないが、痛すぎるダブルブッキングをしでかしていたことに気づく。あぁ痛すぎる、大馬鹿者め、あぁーもうなんともならん、申し訳なさの海に沈没する。
posted by pilz at 22:00| 京都 ☁| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月11日

少年たち

b0037269_21552993.jpgもうやめようと思っていたのだけど、今日の一言でぐらついた。うーん、どうしよう、困った。

関係ないけど、つくしを採りに行きたい。つくしのことを考えていたら、おばあちゃんがつくしを「つくぼん」と言っていたことを思い出した。今から思えば、それは「つくし坊」の意味だったのだろう。春の土手から顔を出すくりくり頭の少年。頭の部分がぱっくり割れたのは笑っているように見える。ネギの花は「ねぎぼん」だった。その昔、土手や畑にはいたるところに少年がいた。
posted by pilz at 23:45| 京都 ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月10日

電車が

動かない。放送が入って、みなあきらめて、家に電話している。まずい。こんな駅で放置されて、どうしろというのか。ややピンチ。
posted by pilz at 22:04| 京都 ☀| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月09日

柏祐賢『学問の道標』

柏祐賢『学問の道標―学究者におくる』(未来社、1984年)です。
みなさんのなかには研究者を志す人もいるでしょう。本書は、文系の研究者を
めざす人の心構えを説くために書かれた――そして、読む者の心を動かしうる――
数少ない書のひとつです。著者は京都学派、とりわけその方法論としては、
哲学者であった高坂正顕の影響を強く受けています。

学問とは一体なんであり、学問を志す研究者はいかなる人格を養わねばならないのか
――30年も前のものですが、著者の考え方を時代遅れと感じる者があるなら、それは、
時代の趨勢に流されることのない学問の本質をいまだ知らない者だと言わざる
をえないでしょう。すでに絶版となり、入手の非常に困難な書物ではありますが、
研究者をめざす人であれば、一度は目を通してもらいたいものです。

著者の「はしがき」を締めくくる言葉を記しておきましょう。
 
「これから、この学問研究の厳しい道にわけ入ろうとする諸君に、ここで強く申したい。
すなわち、この道の何であるかを十分にわきまえ、これこそ、自らの真に進むに値する
道であると自覚し、もってまっしぐらにつっ走ってもらいたい。学問の道は、
自らの生涯をかけ、燃え尽きるにふさわしい一本道である。」
posted by pilz at 22:23| 京都 ☔| 好きな本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月08日

季節時計

ぼくのなかには季節を感知する時計があるようです。ふだん意識している
つもりはないのですが、筋金入りの田舎者ですから、まもなく春というころには、
稲が植えられる前の田んぼや畦道(あぜみち)でレンゲや土筆を摘んでいる夢を見る。
山の斜面でワラビを採ったり、竹薮でタケノコを掘っている夢を見ることもあります。
トップ画像は、いまの自分の季節時計に合わせた、というわけです。

強い日差しが緑の葉を照らしはじめるころには、クヌギの林に行って夢中で
クワガタを採っている夢を見ます。まもなく山桜やウルシの葉が紅く色づきはじめ
ようかというころには、母と山でキノコ狩りをしている夢を見る。
というか、ぼくはそういう夢を見ることで、山や田んぼへ行かなくても、
まもなくそういう時期になることを毎年のように知る。

そういう夢を見ているときは、この上ない至福の瞬間です。幼いころの季節季節の
無性に楽しかった思い出が消えることなく心の片隅に残っているのでしょうね。
たぶんこの夢はぼくが生きている限りはくりかえしくりかえし現われ出てきて、
ぼくを癒してくれるつもりなのでしょう。やさしい夢。

今年の冬も厳しかったように思いますが、まもなくレンゲや土筆が夢に出て
くるはずです。あともう少しで待ち望んでいたなにかが必ずやってくる、
あともう少しで間違いなくなにかにたどりつく――こういう瞬間の時間の流れは、
流れ去る一分一秒がいとおしいような、惜しいような気がします。
季節があることに感謝しないといけないですね。待ち遠しい。
posted by pilz at 22:38| 京都 ☁| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月07日

握手

hitode.jpg
トップの写真を変えましたよ。
posted by pilz at 23:36| 京都 ☔| Comment(0) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月06日

KとYが

隣にいるのですじゃ。飲んでおりました。沖縄料理を食べておりました。じぇ、じぇ、じぇ言うておりまする。Kは海ぶどうを8ミリぐらいくれました。プチプチ。
posted by pilz at 23:01| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月05日

人と土地

学生によっては、ぼくが尊敬しているひとのことを、立派な方だなぁと思っているひとたちのことを話す。それは学生が求めてくるからというより、自分が話したいから話す。そしてそれは、ときどきぼくが沖縄はいいよ、八重山諸島はいいよと、聞かれてもいないのに誰かに話しかけるのと同じようなことなのだ。
posted by pilz at 22:01| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月04日

“小さな孤独” のススメ

ひとりでいることにも意味があると思っています。引きこもりやニートが問題になっているわけですが、だからといって、ひとりになってはいけないということにはなりません。生涯をつうじてひとりというのは極端ですが、ときにひとりになること、“小さな孤独” は必要だと思っているのです。

どんどん複雑になる社会で生きてゆくのはくたびれる作業です。たくさんの情報を受け取り、それを処理しながら取捨選択をしてゆかねばなりません。情報を受け取るアンテナには個人差があります。テレビやラジオのアンテナはたくさんの情報を受信できるものがよいに決まっていますが、人間のアンテナの場合、あまり性能がよすぎるのも考えものです。入ってくる情報が多すぎると、処理できずにCPUがパンクしてしまうからです。そういう意味では、ちょっと鈍なアンテナをもっている方が生きるには楽なのかもしれません。

運悪く(?)性能のよいアンテナをもってしまった人はどうしたらいいのでしょうか?処理能力を高めようとするのもひとつの手ですが、容易なことではありません。手っ取り早いのは、新しい情報を受け取ることをときにしばらく休んで、処理作業に没頭できるひとりの時間を作ることでしょう。

ひとりでいることを異様に嫌う人がいます。グループ活動や団体行動が人間であれば絶対にしたがわねばならない命令であるかのように迫ってくる人がいます。いつも誰かといることを強迫観念のように感じている人さえいます。さびしさを恐れているからでしょうか? それとも、非生産的であることを恐れているからでしょうか? もしそうだとしたら、そういう恐れは、“小さな孤独” には必ずしもあてはまらないでしょう。自分自身との対話に豊かさを感じる人がいて、新しい情報をいったん遮断することが、社会で生活してゆくために必要であると感じている人がいるからです。

「ときどき、人間が誰もいない場所に行きたくなる。誰も自分を知らないような土地に行きたくなる」と言う人は、ひとりやふたりではありません。 いずれも、すぐれたアンテナをもった人たちです。小さな孤独を利用してうまく乗り切ってくれればと思います。
posted by pilz at 20:38| 京都 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月03日

終わらない

今年度最後の入試が終わった。といっても、大学の入試というのは教室での試験が終わればそれで終わるのではなく、そこから採点があって判定があって、合格発表があって、手続きをした学生が入学して、学んで卒業して、社会で生きてゆく‥‥というところまで連綿として続いてゆくものなのではないか。であれば、いったん入試にかかわってしまったら、もうその仕事は終わらないということになる。
posted by pilz at 23:02| 京都 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月02日

もらいもの

ひとからもらったものを箱に叩きこんであって、失礼なことである。整理しないといけない。そういえば、ぼくももらいものなのだ。これを整理するとはどういうことなのか。
posted by pilz at 21:50| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月01日

「イエスと歩む沖縄」

沖縄在住の牧師、平良修さんのインタビュー、「イエスと歩む沖縄」を観た。
「こころの時代〜宗教・人生〜」(初回は2013年12月22日に放送)の再放送。
何カ所も響く箇所があって、書物であれば、何本もの線を引いただろう。

途中、「小さき者」の話があって、あぁいかんと観るのをやめようかと思った。
ぼくはキリスト教のなかにある「小さき者」の話が苦手なのだ。
(なぜそうなのかを詳しく書こうと思ったが、やめておく)。インタビューでは、
そのあとに、人間の価値についての説明があって印象に残った。

「ヨハネによる福音書」の「あなたがたがわたしを選んだのではない。
わたしがあなたがたを選んだのだ」に言われるように、すべての人間の価値は
すでに神によって決められていて、人間にとってはいかんともせず、損ないがたい。
(自分が選んだのであれば選んだ自分の行動次第で自分の価値は損なわれもしようが、
すでに神に選ばれてしまっているのであれば、いかなる自分の行動によっても
自分の価値を損なうことはできない)。その選ばれた価、人間の大切さゆえに、
すべての隣人を愛すべく行動する‥‥といった話に、いままで何度も何度も
読んできた言葉に対し、いままで感じてきた人間のヒュブリスではないのか
というのとは異なった印象を、うまくは言えないが、平良さんの話を聴いて
抱くことがあった。これは自分のなかでの新しい発見となった。

ぼくの言葉ではうまく伝えられそうにないので、もしまた再放送されることが
あったら、インタビューをつうじて平良さんから直接聴いてみてください。
posted by pilz at 17:01| 京都 ☔| Comment(0) | キノコ的逸品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする