2015年02月02日

美と崇高

夜中、手紙をポストに投函する。空気が澄み渡り、星空がぞっとするほどきれいだ。しばらく見とれる。こういうのを、崇高(すうこう)と言うんだろうなと、ふと思う。ふつうに美しい「美」と、ちょっと怖いような美しさの「崇高」を分ける人がいるのだ。小さな花や牧歌的な風景の美しさはふつうの美だけど、そびえ立つ山並みとか、波打つ海原の美しさは崇高ということになる。

なぜ星空は崇高なのだろうか?まず、星空は美しいんだけど、宇宙の空間的な広がりに比べて、自分が圧倒的に小さいことが恐怖心にもなる。自分もそうだし、自分から見れば無限の広がりをもつと思える地球でさえ、宇宙のなかでは点にすぎないのだろう。次に、宇宙は時間的にも圧倒的な広がりをもっているから、それに対する自分の生涯の時間的な短さも恐怖心になる。宇宙がはじまったのが何億年前かはよく知らないけど、ともかく気の遠くなるほど昔からあることはまちがいない。ぼくが見た一瞬の星の光も、何千年、何万年、場合によっては何億年の旅をしてきた光なのだ。それに比べれば、自分の生涯のなんと短いことか。

何千年、何万年前の星の光を見ることは、過去を見るのに似ているかもしれない。そう考えると、星空を見るとしんみりすることの理由もわかる気がする。ぼくの場合、過去は、失敗の記憶の束なのだ。もちろん、よい記憶もあるが、どちらかというと失敗の記憶が優勢で、過去は全体として苦い記憶に彩られている。澄み切った星空に自分の失態を重ね合わせて正視しようとするなら、夜空を見上げて、しんみりするのもわからないではない。すばらしい記憶に満ちた過去の持ち主なら、星空を見上げて、にやけることができるのだろうか。
posted by pilz at 20:08| 京都 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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