2014年12月20日

鷲田清一先生について

お待たせしました。鷲田先生についてお話しできるようになりましたので、
こちらでお知らせすることにします。といっても、ぼくが書くよりも、
べつの方が書いている記事の方がよいと思うので、参照してください。
鷲田先生は2015年度からは大谷大学の客員教授となられます。
先生の研究室は4階のあの場所、そのままです。
(「中高生からの問いに」vol.9)
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2014年06月03日

中程度のエゴイスト

他人なしに自分がないことはもちろんですが、
自分の幸せを求めるためにひとは生まれてきているのだと思います。
自分の幸せを謳歌(おうか)するために、幸せを味わい噛みしめる
ために私たちは生まれてきたのではないでしょうか。

誰であろうと、たとえ大きな恩を受けた親であろうと、
その意向に添うために自分の幸せを切り詰め無くしてしまうこと
はありません。親の幸せとは、誰ともちがう、とうぜん自分たちとも
ちがう幸せを求めていく、これまで世の中に一度も存在したことのない、
たった一人の独立した人間を育てることができた、
ということに基づく(はずの)ものなのではないでしょうか。
親に自分の人生を捧げ尽くす必要などないのです。

私がこのようなことを書くのは、自分よりも親の人生を大切だと思う、
自分に独自の価値があるとは心底からは思えない “心やさしいひと”
の気持ちを変えようとしてでのことではありません。そんなこと、
できるわけありませんもの。ただ書きたいから書いているだけ。
(「中高生からの問いに」vol.8)
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2014年05月10日

「意味をもつ」ということ。

小学校のころ寝ていた部屋の上の四隅には釘が打ち付けてあった。
それは茶色くさびていて、ほこりがたまっていた。無造作な打ち付け方から、
部屋にはもともとそのような釘はなく、あとから誰かがなにかのために取り付けた
であろうことはわかった。でも、あれこれ考えて、なんのためなのかは
わからないまま、いつも知らぬうちに夢の世界に入ってしまうのだった。

ちょっと暑くなってきた。夏になると、ときどきカルピスを飲みたくなる。
できるだけ長細くて透明のグラスに原液と水、そして氷を入れる。
氷の入ったカルピスをマドラーでかき混ぜる。氷がグラスに当たって、
カラカラと乾いたような澄んだ音を出す。ぼくにとってはこの音が
カルピスの味の一部であり、夏の音なのだ。

カラカラという音に耳を澄ましていたら、長く忘れたままでいた、
小学校のころよりもっともっと前の光景が不意によみがえってきた。
部屋には黒いベールがかかっていて、夏用のシーツがひいてある。
黒いベールは蚊帳(かや)なのであった。その一番奥がぼくの場所だった。
母がいて、父がいて、蚊帳のなかには言いようのない安心感があった。
思い起こせば、蚊帳の四隅はたしかに四つの釘で留められていた。

ひとつの全体のなかに誰も交代できない自分の位置を見つけたとき、
そのとき、ぼくらは自分の行動の全体に「甲斐がある」と感じ、
「意味をもっている」と感じるのだ。自分を認めることができるのだ。
これについては、また、もう少し詳しく個研で話すけど、
きっと大切なことだよ。
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2014年03月27日

「なぜキノコが好きなのですか?」

kinoko10.jpg
答えは簡単で、幼いころに母に近所の山にキノコ狩りに連れて行って
もらったときのことがうれしくて、それがいまでも忘れられないからです。
そのとき採ったキノコは、せいぜい5センチほど、イクチという
可憐なキノコなのだけど、それを見つけたときのトキメキは
きっと死ぬまで忘れられそうにない。

長く生きていればうれしいことなんかたくさんあるはずで、
なぜその出来事が特別なのか?と聞かれると困ってしまうのですが、
はたから見るとたとえささいに見えるようなことでも、
そのひとにとってはとても大きなことで、下手をすると生涯にわたって
ひとを苦しめ続けるような悲しみがあるのと同じように、
はたから見るととてもささいなことに見えても、生涯にわたって
ひとをささえ続けるような喜びがあるのかもしれません。

昔、ジークムント・フロイトというひとがいて、そういう悲しみを
「トラウマ(Trauma)」(ドイツ語で夢の意味、ギリシャ語の傷に語源する)
と言ったのだけど、この喜びを「フロイデ(Freude)」(ドイツ語で喜びの意味)
と言ってみてもおもしろいかも。ちなみに、フロイト(Freud)という苗字は、
フロイデと同じ語源で、フロイトは「喜びさん」、なんですね。
(「中高生からの問いに」vol.7)
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2014年01月01日

「おすすめがあれば‥‥」

番組表をみたら、2日に『レナードの朝』(BS)があった。
ちょっと切ないけど、観ておいてもいいかな。
生きていることに、なにか一滴、べつの液体を
注(さ)すことができるかもしれない。

3日(これもどこかのBS)には、寺山修司の番組もあった。
ぼくはこの番組を観たことがないからおすすめできるかどうか
わからないけど、観てみてもいい。寺山に憧れるひとはたくさんいて、
美的センスのないぼくでも、寺山が才人であるぐらいはわかる。

『レナードの朝』というと、必ず連想してまう本がある。
ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』。
「あるひとがそのひとである」というのは、どういうことなんだろう。
幸せってどういうことなんだろう。君は知らないみたいだけど、
ぼくは哲学科の先生なんだ。

ちなみに、『レナードの朝』の「レナード」を演じるのは
ロバート・デ・ニーロなんだけど、このひとの出演する映画で
いちばん印象に残っているのは『ディア・ハンター』。
観やすい映画じゃない。とことん暗い。でも、ざんねんながら、
学生にも、こういうのを一度は観ておいた方がいいよ、
と言いたくなるような時代になってきた。
(「中高生からの問いに」vol.6)
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2013年04月12日

ちびた鉛筆

鉛筆を好んで使っていたころがあった。
新しい鉛筆を最初に削るときには爽快感があった。
使い続けていくとだんだん短くなって、書きにくくなる。
もう削るときの爽快感もない。

そうしてすっかりちびてしまった鉛筆は、
いつも、いつのまにか、なくなってしまった。
もう削れない、というほどちびてしまった鉛筆を
もっていた記憶はない。あの鉛筆たちは、
どこに行ったのだろう。

あるとき、これまで使ってきた、ちびた鉛筆すべてを
筆箱に残しているひとに会って、すごいひとだと思った。
そのひとは、ぼくの嫁さんになったのだけどね。
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2012年12月30日

「これを聞かれると緊張するという問いはありますか?」

daigaku04.jpgあります。いくつかあるのですが、ぜんぶ話してしまうと、営業上(?)の支障がありますので、ひとつだけ教えましょう。「先生は、なぜ先生になったのですか?」という問いです。

これは緊張します。経験上、この質問をしてきたひとが冗談半分でこれを聞いてきたことはなく、いつもしんけんな瞳をしていたからです。

では、なぜこれを聞くひとはみなしんけんなのでしょうか。
ぼくの推測なのですが、これを聞くひとには特徴があります。
ひとつには、これを聞くひとは教師に100%とまではよい思いをもっておらず、
ぼくの答えによって、教師という人種にいかほどの価値があるか
を計っているような節があります。

もうひとつは、学生としてのじぶんが、
教師としてのぼくから、どれほどのものを得ることができるか、
をやんわりと探っている場合があります。

どちらにしても、ぼくであれ、べつのひとであれ、
教師という特定の職種の人間といましばらくつきあって
いかねばならない学生からすれば、切実な問いになるのでしょう。
ぼく自身のこの問いへの答えは、メールであなたに伝えたとおりです。
(「中高生からの問いに」vol.5)
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2012年11月11日

言葉の羽根

kleine.jpgネット上に書かれた言葉や文章には羽根が生えているのです。ここに書いた文章も、ぼくの知らないところまで飛んでいって、会ったこともないようなひとたちの目に触れることになるのでしょう。

ここに書くぼくの文章は論文ではなくエッセイですから、明確な結論がないものがほとんどです。おそらく、じぶんで考えようとする習慣、じぶんで解釈しようとする習慣のないひとにとってはただ曖昧なだけの文章でしょうが、なかには興味をもつひとがあるかもしれないとも思っているのです。

では、興味をもってもらってなんになるというのでしょうか。
これは書くのがひどくはばかられることなのですが、ここにある言葉が
誰かのそばに舞い降り、なにかを選んで前に進むときに力を貸しはしないか、
その羽根で選択のときの重みを軽くしてはくれないか、と
夢のようなことを願っているのです。

もちろん、ぼくの願いとは逆のことが起きる可能性もあります。
「大谷大学入学センター長」のブログになっていますので
責任上、まずいかなと不安を感じることもないではないのですが、
そこは、一種の “賭(かけ)” だ、としか言いようがありません。
無限にあるネット上の文章からどれを読むかは読者に任されているとしたら、
そうした賭をすることも許してもらえる‥‥んじゃないかな‥‥

書くということがぼく自身にとってどういう意味をもつかについては、
ここに書いたので、あわせて読んでもらえればうれしいです。
(「中高生からの問いに」vol.4)
posted by pilz at 22:44| 京都 ☔| Comment(0) | 若いひとたちに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月07日

「対話するとはどういうことですか?」

dia01.jpg4月からこの仕事をはじめて、たくさんのオープンキャンパスに参加するようになりました。

それはいいのですが、不特定多数のひとたちを相手にする大学説明とか自称 “名講義” の小論文対策講義とかばかりをするようになって、高校生たちとの対話の時間がもの足りなくて、ちょっと不満なのです。

「今日はどこから来たの?」
「せんせいは、どんな授業をしているのですか?」

対話は、相手がどんなひとか、じぶんとどんなふうにちがうひとなのかを
知ろうとすることからはじまります。どうちがうかを知ろうとしたうえで、
同じテーマについて話し合おうとするのが対話(ディアローグ/ダイアローグ)です。
だから、相手を知ろうとするつもりのないひとは、10年でも20年でも
ひとりごと(モノローグ)を話し続けることになりますね。
(「中高生からの問いに」vol.3)
posted by pilz at 22:54| 京都 ☁| Comment(0) | 若いひとたちに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月02日

「世のなかの役に立ちそうにないことは、してはいけないのですか?」

kinoko03.jpgあなたの問いは、以前、ぼくがあなたと同じぐらいの年齢のひとに答えようとしたことのある問いと同じだと思います。

幸い、ぼくの考えはそのときから変わっていませんから、ここにも同じ文章をもう一度、書くことにしましょう。読んでみてください。


なんでもいいからひとのためになりたい、と言うひとがいる。自分の体を使ってひとのためになろうとするひともいるし、ひとが必要とする物(モノ。目に見えないものも含む)をつくってひとのためになろうとするもいる。そういうひとたちを見ていると、こっちまでやさしい気持ちになれるし、やっぱり人間っていいなぁと思えたりする。そんなことにナンクセをつけるほど、バカじゃない。

でも。だからといって、なんの役にも立たないことだからやっちゃいけない、なんてことにはならない。自分がすごくおもしろいと思ってやっていることをふと考えてみたら世のなかの役には立ちそうにないから‥‥、なんて変に自信をなくしたり、まして、それを理由にしてやめてしまう必要なんかない。大きな目的があるのはいいことだし、目的に向かっていちばんいい手段を考えるのは大切なことだ。だけど、そういう目的と手段のつながりから外れたものだから捨てないといけない、理由づけがうまくいかないから控えなくちゃいけない、なんて思わない。

ある本にはこう書かれていた。「受験の役には立ちませんが、人生の役には必ず立ちます」。この先の受験の役に立たなくても、ひょっとすると人生の役に立たなくても‥‥要はなにか別の大いなる未来の目的のためにはからっきし役立ちそうになくても、それがいま “おもしろい” と思えるならやっていい。ただし、その結果としてあなたのまわりのひとを悲しませることがなるべく少なくてすむような工夫はいる。そういう意味で、先の見通しは必要なのだと思う。
(「中高生からの問いに」vol.2)
posted by pilz at 22:30| 京都 ☁| Comment(3) | 若いひとたちに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月26日

「先生は尊敬しないといけないのですか?」

boat01.jpgぼくも「せんせい」と呼ばれる仕事をしているので、すごく答えにくいのですが、だからこそ、ぼくに聞いたのですよね(^^ヾ

あなたのいう「尊敬」はどういう意味でしょうか。「ぼくらより大きな力をもっていて、いざというときにはそれをひとのために使うひと」にぼくらがもっている気持ちのことでしょうか?だとすれば、「先生みんなを尊敬する必要はまったくないけど、尊敬できる先生がいるほうがいい」というのがぼくの考えです。

どうしてかというと、たとえば、ぼくのことしか言えないのですが、
ぼくは、なにか少しでもうまくいくことがあれば、すぐに思い上がってしまいます。
思い上がってしまって、なんでもできる、じぶんひとりでもできる、となってしまい、
こうなると、もう誰からもなにも学ぼうとすることがなくなってしまうのです。
なにもしないというかたちで、将来のじぶんを傷つけることになってしまいます。
そういう意味でも、「じぶんよりも大きな力」をもったひとがいることを
知っているほうが、いろんなことを学ぶきっかけになるのです。
これがひとつめの理由です。

もうひとつの理由は、複雑な社会のなかでぼくらが一歩を踏み出すためには、
ちがう言いかたをすると、無限にある選択肢(せんたくし)からどれかを選ぼうとするためには、
それなりの安心感が必要だと思うからです。たとえミスをしても、
見逃すことなく気づいてくれて、バックアップしてくれるものがあると思えないなら、
恐ろしくて、不安で、なにかをすることなんてできないのではないでしょうか。

なになに?だったら、尊敬するのはべつに先生じゃなくてもいいじゃないですかって?
そうですね、そう思います。先生というタイプのひとはいまのあなたにとっては
接触する時間が長いひとたちなのですが、できるだけいろんなタイプの多くのひとを、
そして、あなたがそこに含まれる人間がおおかた信頼できて、
尊敬できればそれにこしたことはない、というのがぼくの考えです。
けっして簡単なことではないのですが。
(「中高生からの問いに」vol.1)
posted by pilz at 21:30| 京都 ☀| Comment(2) | 若いひとたちに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月25日

七の段

携帯を使って10年以上になるのに、いまだに改行のしかたをおぼえていない。
ときどき、奇跡的かつ偶然に改行できるのを期待している。

世のなかが祭日だ、休みだと言っていても、それがなんの祭日かはおぼえていない。
元旦とか子どもの日は知っているが、あとはいまひとつわからない。

十二支があるのは知っているが、「そらんじろ」と言われれば、
きっと8番目辺りでつまづく。

九九はほぼ大丈夫だが、ほんとうのことを言えば、
七の段辺りはぎりぎりで、まったく余裕がない。

漢字の書き順は知らない。

授業をする教室の位置は1年かけてもおぼえない。
だいたいの感じで歩いていって、あわよくば、
ちょうど教室に入っていく顔見知りの学生がいないかと探している。

「英語ぐらい読める」という顔をしているが、
ほんとうのことをいえば、どう考えても理解できない文章がいくらでもある。

‥‥(ほかにもたくさんあるけど略)‥‥

立派な教育学者の先生たちが聞いたら怒るでしょうが、ぼくはそんなぐらいです。
学生には申しわけないのですが、いまのところはなんとかやっています。
posted by pilz at 08:42| 京都 ☁| Comment(2) | 若いひとたちに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月15日

自我自賛

heart01.jpgここでは三つのことに気をつけながら書いていきたいと思っています。

ひとつは、社会や学内の時事問題については書かないこと。ぼくもなにも考えないわけではないのですが、ここでまっすぐになにかを言おうとは思いません(ちょっとひねって話すことがあるかもしれないけど)。

もうひとつは、入試制度について説明しないこと。担当者とも話したのですが、
それはここでのぼくの仕事ではありません。
入試制度については大学HPのページをみてもらいたいと思いますし、
ぼくの職場のひとたちがあらゆるメディア、コンテンツをつかって
広報活動にがんばっているので、どこからなりと情報が手に入るはずです。

最後に、ひと(他人)を責めないことです。
ひとを責めるひまがあるぐらいなら、自分をほめることに力を尽くしたい。
自分をほめることをつうじて話しかけたいのです。
最初、担当者からこのブログの話を聞いたとき、
「しめた、 “自我自賛” の場ができる」と内心、喜んだものです。
自分をほめることなど誰でもできるとあなたは考えるかもしれませんが、
特殊なひとを除けば、自分を心底ほめるのは簡単ではないと思います。
ぼくの学生たちとの関係は、たいていここからはじまります。

今日は、今年度二回目のオープンキャンパスです。
posted by pilz at 06:02| 京都 ☁| Comment(2) | 若いひとたちに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月08日

学校で学ぶということ

daigaku01.jpgこれからいろいろなことをお話しするでしょうけど、まず、ぼくが学校をどういう場所であると考えているのか、をお伝えしておきましょう。

学校はつぎのような思いをみなさんがもてるよう、あの手この手で「バックアップ」する場だと考えています。(「‥‥にあたいする」という言葉がイヤなら、「‥‥していい」と読みかえてください。)

(1)自分が生きるにあたいすること。
(2)人間が信頼するにあたいすること。
(3)世界が生きていくにあたいする場所であること。

もちろん、ぼくとはべつのことを考えるひともいっぱいいるでしょうけど、
ぼくじしんの考えはこういうもので、変わらないと思います。
ラベル:写真
posted by pilz at 08:34| 京都 ☀| Comment(3) | 若いひとたちに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月05日

「駅から近かったから」

大谷大学は地下鉄の北大路(きたおおじ)駅の上にあります。
「大路小路」の「大路」は「北大路」にかけてあるのでしょう。

学生たちには、ときどき、「どうしてこの学校に来たの?」といったことを聞くことがあります。
「勉強したいことがあったから」とか、「人間に興味があったから」とか、いろいろですが、
「駅から近かったから」「雨にぬれないですむから」といった学生がいて、
驚かされ、そして、考えさせられたことがあります。
posted by pilz at 09:22| 京都 ☔| Comment(2) | 若いひとたちに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする