2015年03月14日

手塚治虫「雨ふり小僧」

いつからか、個研に一本の傘が置かれたままになっている。
心当たりのある人たちに問い合わせてみても返事はない。青い女性物で、
全体に色が褪せ、先の部分が欠けている。愛着をもって使われていたのだろう、
捨てることもできない。あれから何度か雨の日を過ごし、思い出してもらえる
チャンスを逸した傘は、もう忘れられてしまったのかもしれないが、じっと
持ち主を待っている。「雨ふり小僧」(手塚治虫)のセリフを思い出した。
(『手塚治虫名作集』第2巻、集英社文庫所収)

よく 物置なんかに ふるいカサが すてられてあるどに ああいうのから
おいらたち 生まれるどに

山奥の分校に通うモウ太は、本校の子どもたちから田舎者とバカにされる日々。
そんなある日、モウ太は橋の下で古傘の妖怪、雨ふり小僧と出会う。
モウ太の長靴を欲しがる小僧に、モウ太は三つの願いを叶えてくれたら
長靴をやると約束する。三つ目の願いは分校の火事を消して欲しいというもの。
火に近づいたら(自分が)消えてしまうと尻込む雨ふり小僧に、モウ太は言う。
「火を消してくれたらきっと長靴をやる。あの橋の下で待ってるから」。
その言葉を信じて小僧は必死で火を消す。だがその直後、モウ太は都会へ引越す
ことになった。長靴をわたすこともないままに。約束はすっかり忘れ去られ、
40年の歳月が流れて、モウ太は幸せな父親になった。ある日、娘にせがまれ
長靴を買おうとしたとき、モウ太は雨ふり小僧との約束を思い出す‥‥

雨はまた降る。傘といっしょに、個研の住人も、
もう少し持ち主を待つことにしよう。
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2015年03月09日

柏祐賢『学問の道標』

柏祐賢『学問の道標―学究者におくる』(未来社、1984年)です。
みなさんのなかには研究者を志す人もいるでしょう。本書は、文系の研究者を
めざす人の心構えを説くために書かれた――そして、読む者の心を動かしうる――
数少ない書のひとつです。著者は京都学派、とりわけその方法論としては、
哲学者であった高坂正顕の影響を強く受けています。

学問とは一体なんであり、学問を志す研究者はいかなる人格を養わねばならないのか
――30年も前のものですが、著者の考え方を時代遅れと感じる者があるなら、それは、
時代の趨勢に流されることのない学問の本質をいまだ知らない者だと言わざる
をえないでしょう。すでに絶版となり、入手の非常に困難な書物ではありますが、
研究者をめざす人であれば、一度は目を通してもらいたいものです。

著者の「はしがき」を締めくくる言葉を記しておきましょう。
 
「これから、この学問研究の厳しい道にわけ入ろうとする諸君に、ここで強く申したい。
すなわち、この道の何であるかを十分にわきまえ、これこそ、自らの真に進むに値する
道であると自覚し、もってまっしぐらにつっ走ってもらいたい。学問の道は、
自らの生涯をかけ、燃え尽きるにふさわしい一本道である。」
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2015年02月14日

杉山登志郎『発達障害のいま』

ひとにはそれぞれ本の読み方があるだろう。
おもしろいと思ったページを折るひと、箇所に付箋を貼るひと。
線を引くひと、決してひかないひと。ぼくは線を引くタイプ。

ぼくは通勤時間が往復で3時間かかるタイプなので、
だいたい往復で新書が1冊読める。1冊の本を読み切るのに持続する
集中力というか、読みたいという欲望の持続時間は2日間ぐらいなので、
1日目の往復で鉛筆で薄く線を引き、2日目の2回目の通読の際に、
薄く引いた部分でなお大切だと思える箇所があれば線を濃く太くする。
もし大切でない箇所に線を引いていたら消しゴムで消してしまう。
こうして読めば、大方のことは理解できる。

この2回の通読でしばらくその本は脇に置くが、必要な箇所を
みたい場合には、薄い線の箇所と濃い箇所をみればよいわけで、
10分もかからずに大切な部分を総覧することができる。

ただ、ときどき、あまりにも勉強になる本に出会うと、
1回目の通読のときには線が引けないことがある。
線を引く場所が多くなりすぎてしまうからだ。こういうときには
1回目に線を引くのは断念して、2回目に引く。

杉山登志郎氏の著作については『発達障害の子どもたち』で多くを学び、
もうそんなに目新しいことはないだろうと思っていたのだけど、
これを読んでまた勉強になった。EMDRにはもちろんびっくり仰天するが、
個人的には、「虐待的絆」(歪んだ愛着)について以前からわからずに
悶々としていたことについて、示唆を得たような気がする。

杉山氏の著書を読んでいて感じるのは圧倒的な臨床体験からくる
必要が氏の研究を促しているのだろうということ。ただし、
氏のかかわることが精神医学だから特別にそうだというのではなく、
どのような学問も、いまこの目の前にあること、いまここにいる自分に
とって切実な問題を解くためにあると思う。たとえ宇宙の彼方にある
もののことであっても、一度も会ったことのない存在のことであっても、
この自分にとっての切実な問題となることがあるのだ。
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2015年01月02日

南原繁『国家と宗教―ヨーロッパ精神史の研究―』

「南原繁」を知るひとは少ないだろうけど、ぼくのなかでは名著。
ぼくが名著というのは、こちらの思考をどこまでも刺激してくるものなの
だけど、もうひとつ必要なことがあって、それは、「わかっている」
「知っている」「すでに解けている」「もう済んでいる」といった類いの
こちらの思い上がり、独断を木っ端みじんにしてくれるような本のこと。

学生時代にこれを読んだときには、南原の哲学の知識がすごくて、
そのころのぼくはカントの考察で自分よりもできる政治学者なんておるまい、
と高をくくっていたので、これを読んで、心底、南原に怯(おび)えた。
おもえば、高名な学者を相手にして、思い上がりもいいとこなんだけど、
若気の至りとお許しください、どこかすがすがしいぐらいの思い上がり
でしょ?と、あまり反省の色もなくどこかに向かって頭を下げる。

そしてもうひとつこの本の好きなところをあげれば、
理性論によって平和の可能性をぎりぎりのところまで考えていること。
勉強不足を盾や矛にして人間の理性をあげつらうことは誰にでもできるけど、
そういう平和の可能性をプラトンからドイツ観念論ぐらいまでを参考にして
誠実に考察していて、ぼくは、南原さんというのは立派な方だと思った。

けっきょく本を好きになるというのは、少なくともぼくにとっては、
著者を好きになることなのだろう。この本が岩波文庫に収録されていたことは、
先日知った。これを来年度、ゼミで読むテキストにしておけばよかった‥‥
(残念ですが、この本をまったく哲学の知識のないひとが独力で読むのは
難しいと思います。誰かいっしょにこの本、読みませんか?)
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2014年11月30日

山田晶『アウグスティヌス講話』

山田晶先生の『アウグスティヌス講話』(講談社学術文庫)です。
もともとは別の出版社から出されていましたが、この文庫に再録されました。
著者が京都の北白川教会で一般の方に向けて話したものとあって、
大変読みやすい内容となっています。

もちろん読みやすいだけであれば紹介する必要はないのですが、
とんでもないモンスター、すいません、天上の神のような碩学(せきがく)が、
人間の姿をまとってわれわれ一般人の目線にまでおりてきて下さると、
こんなおそるべき一言一句ができあがる、というサンプルです。

山田先生については、CKPせんせの報告が貴重なので、ご参考までに。
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2014年08月18日

柳田国男『遠野物語』

昨日、妖怪ということを書いていたときに思い出した本を。

クリアになりすぎてしまったときに、薄いヴェールをかけて、
気が遠くなりそうな気分を添加したくなったときに読む本。
まったく意味不明なことで、申し訳なく候。
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2014年08月16日

長谷川集平『とんぼとりの日々』

shiokara.jpg
今日は本の紹介です。長谷川集平の絵本。
長谷川集平の絵本としては、森永砒素ミルク事件の被害者でもある氏の
少年時代の体験を描いた『はせがわくんきらいや』が有名かもしれませんが、
ここでは『とんぼとりの日々』を紹介します。(長谷川さんは現在、
京都造形芸術大学の客員教授なのかな?)

と思いましたが、本のストーリーは書けないので、別の話を。

幼いころ、トンボ捕りに凝ったことがありました。その形をかっこよい
と思っていたのでしょう。慣れると水平に飛んでいるトンボでさえ捕れる
ようになるのですが、あるとき、そうやってトンボを捕って覗き込んだ
虫取り網のなかで、トンボの胴体と頭部が離れてしまっていて、
その複眼がこちらを虚ろに見ていたのでした。

子どもは子どもながらに悪いことを悪いことだと感じるのだと思いますが、
そのとき感じた、戯れに命をもてあそんだことへの悔恨の念が痛烈で、
それ以来、今日まで、ついぞ虫取り網を手にする気になれません。
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2014年05月11日

NHK「東海村臨界事故」取材班編『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録』

品切れだと思っていたら、増刷されていた。「好きな本」として
紹介するが、この内容を好ましく思う人はいないだろう。
どうしてここで触れるかというと、ひとつの事実を伝えるものだから。

ものごとにはたいてい、べつの可能性があるものだが、
この本のなかには別の可能性が、別の選択肢がみえない。
まるで医療班の努力などないものであるかのごとくに、命が、
一直線に、着々と「朽ちていく」プロセスを追い続けねばならない。

「被曝治療は、近い将来、
勝つ見込みのある闘いだとは思えなくなった。」

どんでん返しの可能性のなかったこと、救いの可能性がなかったこと、
そういう事実を描いたドキュメント。
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2014年03月02日

ジョサイア・コンドル『河鍋暁斎』

テレビをつけたら、珍しく河鍋暁斎とジョサイア・コンドルの
番組があって、これだったらY先生の専門だなぁと思っていたら、
Y先生が出てこられた。思わず、「わっ先生」と声に出る。
きっと先生の達意の名訳があったから、こんな番組ができたのだろう。
翻訳の大切さを、つくづく思う(が、現在、品切れ)。

元来ぼくは、不必要に「先生」を連発するようなひとに
警戒心をもつタイプで、ひとを「先生」と呼ぶのが好きではない。
そこには、おうおうにして、権威主義やら狡猾な打算といった
どす黒いものがとぐろを巻いているからだ。

なので、かたくなにそう呼ぶことを避けようとするが、
すさまじい実力と、外に現れた謙虚な物腰・行動とのギャップが、
ある一定の数値を超えたとき、自然と、なにをはばかることもなく、
「先生」と呼んでしまう。
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2014年02月23日

『銀の匙』

わけあって夏目漱石を読んでいた。小学校のころから
何度も読んでいるが、改めて読んでみて、文章のうまさに唸った。
軽快だし、それだけでなくて、隠しきれないバックグランド
ないし蓄積――教養と言ってもいいかな、がにじみ出てきている。

前に藤本としというひとの文章を紹介したことがあって、
すごい教養のあるひとだと思っているのだけど、
明治の知識人として生きた漱石の教養は、もちろん
藤本としのそれとはちがう。藤本は生きることの多層性が
蓄積になっているし、漱石は知識の広範性が蓄積になっている。
ああ、わかりにくい文章を書いてしまった。許せ、ニャン吉よ。

先日、「明治以降の文学者で好きなのは誰ですか?」と
聞かれたので、ここに書いておきましょう。

漱石と鴎外をまず考えたけど、じつはいちばん好きなのは、
漱石に習った中勘助かもしれない。中の作品はみな好きだけど、
なかでも、漱石に激賞された彼の処女作、『銀の匙』が好き。
ときどき、少年の感性を思い出したくなったときに読む。
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2013年07月06日

パトリシア・ポラッコ『ありがとう、フォルカーせんせい』

お待たせいたしました。
では、今年前半に読んだ絵本のなかから、
個人的な絵本大賞をお知らせいたしましょう。

パトリシア・ポラッコ『ありがとう、フォルカーせんせい』
(岩崎書店)です。なになに?そんな本知らないって?だから、
ここに書いているのです。読む者を動かすことのできる本です。

で、なにがよいかということですが、
ストーリーのよさはご自身で読んでたしかめてください。
これから先生になりたい、と思うひとなら、ぜひ。

ここでは絵のことを言っておきます。絵もポラッコ。
画家による絵というのではないにしても、独特の絵柄です。
とくにぼくが好きなのは人物の表情。

「どうしてもわからない」という表情。
「やっぱりじぶんには無理なんだ」という表情。
「おもしろい! わかるようになった!」という表情‥‥。
主人公の心の動きが、手にとるように伝わってくるのです。

「おもしろい(面白い)」というのは、もやもやが晴れて、
目の前がぱっと明るくなったときのさまを表現するのだと言います。
「おもしろい!」――いくつになってもそんな表情をしてみたいし、
そんな表情に出会えたら、と思います。

ちなみに、2013年前半の次点は、
谷川俊太郎・和田誠『あな』(福音館書店)です。
この本についてはこれからいろんな授業で使うので、
ここではなにも話さないでおくのです。
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2013年07月05日

『つみきのいえ』(加藤久仁生 監督)

海底から伸びてわずかに海面から突き出たタケノコの先のような
小さな家に老人がひとり暮らしている。壁には古い写真が掛かり、
老人は床の穴から釣り糸を垂らす。なにも話さない。

そうこうするうちに、ひたひたと床に波が寄せくる。
老人はレンガを積みはじめる。やがて古い家は水に沈んで魚の住処に。
老人は、古い家の上に積み上げられた新しい家の床穴から海を
覗き込む。はじめて家族をもったときの小さな家が海底に残っている。
彼はこうして家を積み上げ続けてきたのだ。

ひたひたと忍び寄って現在を過去へと引きずり込む波は時の象徴。
海中の過去は老人の記憶。海底から積み重ねられた“つみきのいえ"
は彼自身なのだ。彼の記憶のなかで、いや、彼自身のなかで、
彼の一部となった最愛のひとは待っている。ぼんやりとした
ヴェール越しにしか大切なひとに会えないことに切なさはつのる。
だが、その切なさが「切り離されることはない」の意味であれば、
その意味をしみじみ味わいながら暮らしていくこともできるのだろう、
と信じてみたい(が、どう考えても無理だ)。

(この作品は絵本にもなっていますが、DVDの紹介です。
この作品は、ナレーション抜きでご覧になることをおすすめします。)
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2013年06月04日

太田順一『化外の花』(けがいのはな)

今日紹介するのは写真集です。
いつも一般受けする本は紹介しないのですが、
この写真集は相当に変わっていて、極めつけです。なんせ、
「化外」(法的権力、王権の及ばない地域)というくらいですから、
“アウトロー” だと自己主張している “花の写真集” なのです。
ただし、甘ったれた軟弱なアウトローではありません。
骨太のアウトローなのです。

あんまり売れそうもない写真集(失礼!)ですが、
ぼくがたまらなく惹かれるのは、この写真集がぼくの偏見を
完膚なきまでに打ちのめしたからです。
ぼくにとっては、殺風景とは、ひとに見捨てられた、
それゆえに可能性のない場所であり、生命感のない場所です。
写真集の主たる舞台は大阪湾岸埋立地の重工業地帯
(かつて小野十三郎が「葦の原」と呼んだ地域です)の一角。
まさにぼくが殺風景を感じる場所。

太田は、そのような人間に見捨てられた場所でたんたんと
咲き続ける花を撮り、花を通じて、殺風景であることと
生命がないことには関係がなく、人間の統制があるかどうかと
花が咲くことには関係がないこと、いやそればかりか、
歪んだ統制はときに生命にとって重荷になる
場合があることを知らせるのです。

太田にはハンセン病療養所を撮った写真集があります。
かつてハンセン病療養所の人々が置かれた立場と、
重工業地帯の一角に咲く花、そこに「化外」という
共通性を見ているのです。太田は言います。
「自分もまた〈化外の民〉でありたいと願っています。」
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2013年05月05日

中坊公平『金ではなく鉄として』

中坊公平氏が死去されたらしい。
ぼくの胸のなかにある星空から、ひとつ星が落ちた気がする。

以前、「尊敬するひとは誰ですか?」と立て続けに聞かれて、
答えられなくて困ったことがある。おばあちゃんと言うのも変だし、
恩師の名前を出すわけにもいかない。カントと言っても、
おおかたのひとは目を白黒するだけだろうから、聞かれても、
「はぁ」とかなんとか言ってごまかすしかなかった。

そんななかで、中坊公平氏はその答えの候補に
なんどもあがったひとだった。森永ヒ素ミルク事件、
豊田商事事件での被害者救済、豊島訴訟‥‥
氏がなんとしても守ろうとするものに、ぼくは共感した。
じぶんにもそんな力があればいいのに‥‥と思った。

とはいっても、ぼくはさして知りもしない方を英雄視することも、
もちろん非難することならなおのこと、も〜だいっきらいだから、
中坊氏もまたその候補から消えてしまったのであった。
だって、ぼく、中坊さんのことぜんぜん知らんねんもん。

そんな中坊氏関係の本でいちばん読みやすいと思っている
ものをあげておきます(聞き手・構成は武居克明)。
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2013年04月28日

藤本とし『地面の底がぬけたんです』

大谷大学の学生であれば、卒業するまでに読んでおいて欲しいな
と思う本が何冊かある。薄い文庫で読める代表的なものをあげれば、
『歎異抄』『キリスト者の自由』『ソクラテスの弁明』といったところ。
すぐにはわからないかもしれないけど、いつか効いてくる。
それと、ちょっとぼくの好みに偏って、文庫でもないけれど、一冊。
図書館では借りられるの?

――――――
著者の藤本としは、若くしてハンセン病に罹患(りかん)し、
手足の指、ほぼ全身の身体感覚、視覚を失った女性。
穏やかな語り口のなかに、隠しきれない気品を漂わせている。
構成は、第1部の随想と第2部の口述筆記。

とりわけ随想38篇は珠玉の佳品。幾重にも積み重なった
内省と葛藤の襞(ひだ)からようやく滲み出した一滴一滴を見る思いがする。
外向きの感性の喪失がかえって豊かな内向きの感性を生み出したことは
事実だとしても、それはやすやすと、時の経過につれて自然に、必然的に、
著者のうちに生まれたようなものでは決してない。

「闇の中に光を見出すなんていいますけど、光なんてものは、
どこかにあるもんじゃありませんねぇ。なにがどんなにつらかろうと、
それをきっちりひきうけて、こちらから出かけていかなきゃいけません。
‥‥自分が光になろうとすることなんです。それが、闇の中に
光を見出すということじゃないでしょうか。」(第2部、322頁)

いつか自分が光になれるという保証など、どこにもない。
ましてや、あなた自身が光になりなさい、と人を諭(さと)すことなど、
できはしない。それでも、そのような人がかつて確かにいたことは、
今を生きる者のかすかな励みになるかもしれない。
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2013年02月07日

ルイス・サッカー『穴』

(以下は以前、12月23日ごろに書いた文章です。)
当方、病んでおりまする。ゲホッゲホッ。風邪をひいてしまいました。
ウィルスの猛攻撃にタジタジしておりまする。しかしこのような苦しいときにこそ、
人様のお役に立ちたいと願い、一人クリスマスを迎えるあなたのために、
おすすめの一冊をご紹介いたしましょう。

きっとあなたはこう考えておられるに違いない。
これだけの実力を秘めたこの私がクリスマス周辺の日々を一人ポッチで過ごすなんて、
単に今年はツイてなかっただけなのだ。そうです。ツイていなかっただけなのです。
そこで、どうでしょうか?ルイス・サッカー『穴』をお読みになっては?

主人公は少年、スタンリー・イェルナッツ四世。
この少年、だてに四世というのがくっついてるわけではありません。
ひいおじいさんも、おじいさんも、お父さんもみ〜んなツイてない、
先祖代々まったくツキから見離された家系に生まれてしまった、
あわれな少年なのです。彼自身、「まずい時にまずいところに」いたという理由だけで、
無罪の罪で砂漠の真ん中の少年院にぶち込まれ、来る日も来る日も、
穴を掘る強制労働を続けさせられています。(この辺り、CKPせんせいだと
「穴をホール、な〜んちゃってね」などと昭和レトロ調にボケるのでしょうが、
当方、そんなことはしないのです。)

しかしある日、スタンリーは思い立ちます。行動します。はたして、
彼は四代にもわたるイェルナッツ家の “呪い” を断つことができるのでしょうか?
アメリカの児童文学書ですから、テツガク的なひねりはないけれど、
素直におもしろいですよ。なになに? 今からじゃクリスマスまでに手に入らないって?
病んだ当方、そこまでの責任は負いかねます、ゲホッ
posted by pilz at 13:03| 京都 ☀| Comment(0) | 好きな本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月25日

『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(井村和清)

祥伝社のノン・ブックシリーズの一冊として1980年に発売され、その後、
文庫化されたものです。100万部以上を売り上げたかつてのベストセラーであり、
ご存知の方も多いでしょう。

著者は井村和清。医師であり、「飛鳥」と「まだ見ぬ子」の父親でもあります。
病に犯され、死を覚悟し、亡くなるまで井村が書き続けた文章がこの書の主な内容です。
徐々に進行するみずからの病を医師として冷静に見つめ、その一方で、愛する人たち
――両親、妻、子ども、病院の同僚たち‥‥への思いを切々と綴っています。
その思いは、やがて遺されてしまう者への慈愛に満ちたものです。なかでも、
飛鳥への思いを綴った部分は、父親の子どもへの思いを素直に語ったものとして、
白眉の文章だと思います。

ひねりはありません。特別に名文というわけでもありません。
それでも、読む者の胸を打つ逸品です。この書をもとにして制作された番組のビデオ
(NHK特集「妻へ飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ」)も、発売されているようです。
美しい映像と宇野重吉による朗読が溶け合った見事な作品でした。
もし幸いにして入手可能なら、ご覧いただければと思います。
posted by pilz at 23:26| 京都 ☀| Comment(0) | 好きな本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月09日

『無人島に生きる十六人』(須川邦彦)

無人島が好きということもあってか、事実に基づいた漂流記が好きです。
いったいこれまでどれほどたくさんの方々が漂流し、
命からがら絶海の孤島にたどり着き、ぎりぎりの生活をしながら、
何年、あるいは何十年の望郷の思いを胸に抱きつつ、
願い叶わず死んでいったことか‥‥。
失礼しました。今日はそういう話は書かないのです。

というわけで、ここでは、しゃれこうべだらけの吉村昭の『漂流』や、
読むからに寒いシャクルトンの『エンデュアランス号漂流記』(全員帰還したけどね)
は漂流記の名作とわかっていてもその辺にうっちゃっておいて、
この本をご紹介します。楽しく読めるからです。
読めば元気になること、請け合いだからです。

読んで楽しい理由は、16人全員が帰郷できたこともありますが、
それだけではありません。揃いも揃ってみんなが前向きなのです。
いじいじするヒマがあるぐらいなら、みなで取り決めた仕事に汗を流すような、
規律正しい生活をしています。そうして、ついには、みんなで勉強会まではじめて、
おかげで島を出るころには、遭難前には文字も書けなかった人たちも
手紙を書けるようになっていた‥‥というから驚きです。「この年になって、
はじめて、生きがいのある一日一日を、この島で送ることができました。
心が、海のようにひろく、大きく、強くなった気がします」。

持ち前のものがゼロにならないよういかに守り切るか――
を漂流記の本質だと思っていたのですが、限界状況の島で生き残る、とは、
なにか新しい力を積極的にプラスしようとした場合に可能になることのようです。
posted by pilz at 11:14| 京都 ☀| Comment(0) | 好きな本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする