2015年02月07日

雪山

一般入試第1期の最終日。ほんのわずかな時間のメディテーションにもかかわらずYさんにチェックされ、センター長として入学制度をメディテーションすることのむずかしさを再認識する。これで第1期は終わったが、この一週間、この一週間が山なのだ。遭難せずにいくつもの雪山を乗り越えることができるかどうか。
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2015年02月06日

キノコ記念日

一般入試3日目。G君から文藝コンテスト一次審査用の応募作品の束を見せられ、その分厚さに天を仰ぐ。今日はまことに珍しいことに課長がキノコ話に乗ってきたので、キノコ記念日とする。いずれにせよ、半笑いの二次元氏ほど恐ろしいものはない。
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2015年02月05日

今日は

一般入試2日目。雪が降るかと心配したが、大丈夫だった。若干のメディテーションもあり。文藝コンテストの応募者数が判明。それについては明日書こう。
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2015年02月04日

今日は

一般入試の初日でありました。入試業務をへろりと放置してから、卒業生と飲みましたな。楽しかった。次は、沖縄で飲もう!
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2015年02月03日

豆を投げつけられませんように。

しまった‥‥「今日は早く帰ってくるように」とのキツイお達しを受けていたにもかかわらず、それをすっかり忘れていて、また遅くに帰ってしまうのです。思えば今日は節分なのでありました。あぁいかん、いかんことです。
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2015年02月02日

美と崇高

夜中、手紙をポストに投函する。空気が澄み渡り、星空がぞっとするほどきれいだ。しばらく見とれる。こういうのを、崇高(すうこう)と言うんだろうなと、ふと思う。ふつうに美しい「美」と、ちょっと怖いような美しさの「崇高」を分ける人がいるのだ。小さな花や牧歌的な風景の美しさはふつうの美だけど、そびえ立つ山並みとか、波打つ海原の美しさは崇高ということになる。

なぜ星空は崇高なのだろうか?まず、星空は美しいんだけど、宇宙の空間的な広がりに比べて、自分が圧倒的に小さいことが恐怖心にもなる。自分もそうだし、自分から見れば無限の広がりをもつと思える地球でさえ、宇宙のなかでは点にすぎないのだろう。次に、宇宙は時間的にも圧倒的な広がりをもっているから、それに対する自分の生涯の時間的な短さも恐怖心になる。宇宙がはじまったのが何億年前かはよく知らないけど、ともかく気の遠くなるほど昔からあることはまちがいない。ぼくが見た一瞬の星の光も、何千年、何万年、場合によっては何億年の旅をしてきた光なのだ。それに比べれば、自分の生涯のなんと短いことか。

何千年、何万年前の星の光を見ることは、過去を見るのに似ているかもしれない。そう考えると、星空を見るとしんみりすることの理由もわかる気がする。ぼくの場合、過去は、失敗の記憶の束なのだ。もちろん、よい記憶もあるが、どちらかというと失敗の記憶が優勢で、過去は全体として苦い記憶に彩られている。澄み切った星空に自分の失態を重ね合わせて正視しようとするなら、夜空を見上げて、しんみりするのもわからないではない。すばらしい記憶に満ちた過去の持ち主なら、星空を見上げて、にやけることができるのだろうか。
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2015年02月01日

揺さぶり動かす喜び

kusa.jpg
こういうことを言うと多方面からお叱りを受けるのを百も承知で書けば、ほんらい、多くの学校は「わかるようになった」という喜び自体を第一に求めていて、それが結果としてどうなるかは二の次にするところなのだと思っている。

ぼくの母はあまりにも貧しくて小学校もほとんど行けなかったひとで、漢字どころか平仮名もまともに書けず、ましてやアルファベットなど読めなかったから、働いていてもことあるごとにバカにされていたらしい。よほど悔しかったのだろう。仕事から帰ってきて、夜半、泣きながら、台所にあったテーブルの上で文字の練習をしていたことを覚えている。

あるとき、ぼくが学校でならってきた文字を教えて、それが自分でも読めたとき、えもいわれぬうれしそうな顔をしたことがあった。わかったときのその嬉しそうな表情を、ぼくは忘れることができない。

大学というと、最高学府で、例えば専門学校とは違うということが言われたりする。そういう言葉はえてしてあぐらをかいた大学人の口実である場合が多いのだけど、最初に書いたように、多くの大学とは、とにかくなによりもさきに「わかるようになった」「自分でできるようになった」「おもしろい」という喜びを求め、それにまず専従するという意味での専門学校なのではないかと思っている。

「わかるようになった」でどうなる、「自分でできるようになった」でそのさきはどうなるのだ――そう言うひともいるかもしれない。それはそのとおりなのだが、ぼくに言わせればこの喜びはとても根源的で、なにかを揺さぶり動かすタイプの喜びなのだ。この喜びが沁みれば、あとは自分でも喜びを求めて、べつの新しい問題を立て、工夫しながらそれを解き、わかった喜びを知ってもらいたいがためにそれを自分以外のひとに知らせる――という一連の動きは出てくる。逆に言えば、この喜びを知らなければ、なにもはじまらないのだ。

いまでも実家の台所には粗末なテーブルが置いてあって、表面には母が練習していた文字のあとが窪んで残っている。めったに帰らなくなった実家だが、たまに帰ると、その窪みを手でなぞりながら思う。ぼくが大学院に行って、大学の先生になったのだよと言ったら、どんなに母は驚くだろうかと。大学院と言っても、意味がわからないだろうけど。
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2015年01月31日

五叉路

(以下は東京で書いた文章です。)
五叉路に出くわすと、なぜか道に迷ってしまう。これまで五叉路にはあまり
出会わなかったせいか、四方に方角を当てはめるのが習慣になっている
からなのか、よくわからない。いやそんなむずかしいことを考えなくても、
分母が多いと正解率が下がるのは当たり前のことか。

それにしても分母の大きな街だと思う。上から下まで、白から黒まで、
天使の良心から悪魔のたくらみまで、ありとあらゆる選択肢がぐちゃっとなって
路傍に転がっていて、雲の上に頭を出しているひとからすでに人間をやめて
しまったひとまで、ありとあらゆる種類の人の形が跋扈(ばっこ)している。

大きな分母の街で生きることは、選択能力という実力をもったひとには
チャンスだろうが、もたないひとにとっては、一歩のミスで身を滅ぼす、
このうえない危険だともいえる。これは大学にもいえることだ。
入学後半年で自滅するひとをどれほど見たことか。もう一種類、
こんな街に向いていると思うのは、考えすぎて自分を追い込んでしまう
性質のひと。巨大な分母の前で思考停止に陥ることができるからだ。
きっと楽になれるだろう。
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2015年01月30日

今日は

はい、はい、今日も手裏剣をシュシュとして、それが終わってからは2年生のコンパでございました。これまで担当したなかではもっともディスカッションをするのに苦労した学年でした。ともあれ、これでお別れ。それぞれ、元気に4月を迎えてください。
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2015年01月29日

シュシュ

卒論試問で教員たちはみなピリピリしている。この時期が薄いピンクのベールのかかった空気が流れるような(どういう意味なんだ)柔らかな時期になればいいけど、試問は真剣勝負だからそういうわけにはいかないのだ。といっても、厳しい言葉ばかりではない。Pせんせなんか、これほどまでに暖かな物言いがあるのかと思うほどやさしい物腰で学生に話しかけておられた。あんな風に話しかけたら、そら、沁みるって。一方、私はと言えば、いつも学生に向けて手裏剣を投げてる感じ。シュシュ。
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2015年01月28日

「酸いも甘いも噛み分ける」

「酸いも甘いも噛み分ける」という言葉をつらつら考えてみて、
「酸い」が「辛(つら)い」に近い、あんまりよくない意味で使われている
ということにようやく気づいた。気づくのが遅かった。

そういうことに気づかなかったのは、ぼくにとっては、
すっぱいものとは美味以外のなにものでもないからなのだろう。
しかしそれにしてもなぜすっぱいものが苦になるのだろうか。
硫酸や塩酸にぼくらが日常的にかかわっているとは思えない。
かかわるとしたら食酢や果物としてが大半だろう。

すっぱいものは、思わず身を引き締めるようなものだと言えるだろうか。
誰しもできるだけ弛緩してゆったりし、開放して自分を知ってもらいたい、
と思っているのだろうから、身を引き締めたくはないのだろうか。
そら、外に向けて自分を開放するのはいいけど、ときに内に戻って内省する
のも大切で、それがないのは一本調子すぎて進歩しまへん、と思っている。
ずいぶんいいかげんな考察で申し訳ないです。
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2015年01月27日

「さん」づけで。




セミナーで講師を紹介するときに迷いがあった。
意識していたわけではないのだけど、使っていた言葉が揺れた。
講師を担当していただいた記者を、「さん」づけで呼び、
ときには「先生」とも呼んで、まったく一定しなかったのだ。

ぼくは自分が先生と呼ばれる立場でありながらも、先生ということの
意味がいまひとつわからないでいて、自分以外のひとを呼ぶときには
学校でならった先生以外はなるべく先生と呼ばないようにしている。
どうしても先生と呼んでしまうことがあるけど。

今後も文藝塾のセミナーは続く。そのとき、招待した方たちをどう呼ぶか。
埋め込み記事のように、できれば「さん」づけで呼ぼう。
このセミナーでは、学校の先生でないさまざまな方に来てもらうことに
意味があって、それが大きな効果に、刺激になると思うからだ。
そんなわけで、ぼくはできるだけネクタイを締めないでおく。
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2015年01月26日

もらった。

anzutake.jpg
Hさんからもらった(さて、どのHさんでしょうか)。フィンランド製、アンズタケのスープです。
なんだかんだと書いてあるのですが、私の語学力では歯が立ちません。

アンズタケは日本でも採れて、見た目の色だけでなく、
香りもアンズのような香りがするのです。

いまお湯を注いで飲んでおりますが、美味にございます。
posted by pilz at 18:49| 京都 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月25日

ミカンのギャンブル性

寒いのでホームごたつで仕事をしております。
ホームごたつの上には、冬になるといつもミカンが置いてあります。
ぼくにとってはホームごたつと言えばミカンとネコで、それはみな、
長く続く寒さのなかで、暖かい空気を醸し出すものなのでしょう。

昨日もミカンをつまみながら仕事をしていました。
ミカンには甘いのと酸っぱいのがあって、何十年食べ続けてきていても、
なかなかうまく判別できません。お尻がどうだとか、皮がどうだとか、
微妙な経験知(ミカンって人間なんですね)があるのですが、
完璧なものにはならないのです。幼いころは大きな段ボール箱(ミカン箱)
に入ったミカンを買っていましたらから、酸っぱいばかりの “外れ” を買った
ときは、家のほかの者は食べず、なかなか食べきれずに、やがて腐ってくる
ミカンが出てきて、困ったものでした。酸っぱくても甘くても好きなぼくは
それでもよかったのですが、新しい箱を開けられないのはつまらなかった。

これこそが甘いミカンだ、という基準はありませんから、
いつまで経ってもミカンを食べることにはギャンブル性がつきまといます。
そういう意味では、ミカン箱で買っていた昔は大きなギャンブルをしていた
と思います。一方、いまは小分けでミカンを買いますから、外れても、
それほど大きな損害はありません。

ミカンがすべて糖度20度で、当たり外れがなくなったら、はたして
買うだろうか‥‥考えることがあります。買うだろうとは思いますが、
ミカンにしては、なにやら物足りないような気もします。
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2015年01月24日

理屈をこえたわからなさ

ずっと昔、郷里の家の電話をジーコジーコと時計回りに回転するものから、
プッシュフォン式に変えたことがあった。祖母の楽しみのひとつはジーコジーコを
使って子どもたちと話すことだったのだが、プッシュフォンに変えたとたん、
ぱったり電話を使わなくなってしまった。使い方を覚えることができなかったのだ。
ぼくはそんな簡単がことがわからんわけがあるまいと、半分怒りながら
何度も教えたが、けっきょく祖母はプッシュフォンを使おうとしなかった。

ぼくは基本的に、考えられることは考えないといけないと思っている。
考えられることなのにさっさと屁理屈だなんて、他人を評する自分がいるとしたら、
それは怠惰からくる傲慢以外のなにものでもないと思っている。だけど同時に、
“理屈をこえたわからなさ” もあるのだ。それをどのように自分のなかに受け入れ、
はっきりとした位置をもったものとするのか――それが理屈っぽいと敬遠される
自分の、生涯の課題のひとつなのだろう。
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2015年01月23日

今日は

大学のライティングセンターである文藝塾設置に先立つプレセミナーでありました。自分の仕事を心底楽しそうに話す講師ほど、学生に影響を与えるひとはいないと思う。ありがとうございました。
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2015年01月22日

冬虫夏草の恐怖

16世紀の朝鮮王朝を舞台とするドラマを見ていたら、薬膳の材料として冬虫夏草(とうちゅうかそう)が出てきた。いつだかった、ヒマラヤに近いところに住む人たちが薬草として採取しているのをテレビで見たことがあったが、ずいぶん昔からアジアの広い地域で薬効のあるものとして考えられてきたらしい。

「冬虫夏草」というのはキノコの一種なのだが、昆虫やクモに寄生してそれを養分として育つ変り種で、400種類近くが確認されている。ハチタケ、アリタケ、カメムシタケ、オサムシタケといったノーマル(?)なものから、ニイニイゼミの幼虫からしか生えないセミタケ、ツクツクホウシから生えるツクツクホウシタケ、アブラゼミやエゾゼミ専門のオオセミタケなど、特定の昆虫に特化したものも多い。キノコの研究はほとんど進んでいない状態だから、冬虫夏草も実際にはもっとたくさんあるのだろうし、ひょっとすると、ほとんどの昆虫の種にそれに特化した冬虫夏草があるのかもしれない。

ある種の冬虫夏草の寄生の仕方はおもしろい。空気中を漂っていた胞子は昆虫に付着するやいなや麻痺状態にするらしいのだ。麻痺状態だから昆虫は腐敗しない。ヤンマタケなどはヤンマ(トンボの種類)が木の葉にとまったそのままの状態で生えている。アリタケなどは隊列を組んでいたアリたちの位置関係そのままに生えることがある。卵の状態の幼虫に他の昆虫を餌としてやるタイプのハチには、(卵が幼虫となって餌を食べつくすまで餌が腐敗しないよう)この手の芸当をやるのがいるけど、それは針でチクリとやるわけだから、麻酔注射よろしくわかりやすい。

だが、冬虫夏草の胞子が一瞬のうちにどうやって巨大な昆虫を麻痺させるのか、はよくわからない。まったく不思議だし、昆虫にとっては世界とはなんと恐怖に満ちているのかと思う。知らぬ間に付着した微小な胞子一粒に麻痺させられ、生きながらにしてキノコにされてしまうのだ。幸い、哺乳類に寄生する冬虫夏草はまだ見つかっていない。
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2015年01月21日

しあわせ

気づいたら、駅の自動販売機におしるこがないか探している。いままではおしるこなんて見向きもしなかったのに‥‥。おしるこを探していたら、青年がひとり来て、やはりなにかを探しているようで目が合った。きっと、互いにおしるこを探していたにちがいない、と思うことにする。それで幸せなのだ。
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2015年01月20日

比叡山とこやつと私

teru.jpg
しまった、もっと明るく撮るんだった‥‥。
こやつ自身がなんであるかということは説明しません。周りのことを言えば、
こやつの背景部分にあるのは比叡山で、こやつをぶら下げている左手は
私に所属しています。この場合の「私」とはどこにあるのか?などということを
問いはじめるとややこしいので、きっぱりやめておきます。
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2015年01月19日

損して得取れ

「胸くそ悪くなった、もう絶対売らない」。学生が怒っている。
○○に古本を売った学生が憤慨しているのだ。どんな本だったのか知らないけど、
段ボール箱一杯で「お菓子が買えるぐらいの金額にしかならなかった」らしい。
これだけデジタルとか、ネットとかが発達しているご時世、
古書店にもむずかしい事情があるのだろう。

ただ、「胸くそ悪い」ような印象を与えてよいことはなにもないだろう。
長くみれば、相手に与えてしまったそういう胸くそ悪さは、自分の不利益
として跳ね返ってくる場合があると思うからだ。胸くそ悪い気分になるぐらい
なら、いっそ捨てた方がましだ、と感じるひとがいるかもしれいないからだ。

ぜんぜん関係ないようだけど、あるカメラメーカーには、ひじょうに性能が
いいのにとても安価なレンズがあって、「撒き餌レンズ」と呼ばれている。
このレンズを買うと、つぎつぎそのメーカーの高価なレンズを買っていく
という「レンズ沼」にはまって抜け出せなくなるのだ。かく言うぼくも、
レンズ沼にはまったひとりだったりする。これが「損して得取れ」
という言葉にあてはまるのかどうかわからないけど。
posted by pilz at 22:51| 京都 ☀| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする